「よっと。」
友泰は双姫神社へ続く近道の、腰高のブロック塀を軽く飛び越した。季節はちょうど初夏と真夏の間、日差しによって作られる影は色濃く、木々の緑はここぞとばかりに胸を張っている。地面から立ちこめてくるような独特の夏の匂いが、友泰は格別に好きだった。いや、夏に限らず季節の変わり目に鼻腔をくすぐる匂いはどれもいい。春の芽吹いたばかりの草花の匂い、夏の湿った土の匂い、秋の枯れ葉の乾いた匂い、冬の冷えた石の匂い・・・これから来る季節の匂いは、一年に一度しか味わえない。友泰はそれを思うと途端に惜しく思われて、肺いっぱいに空気を吸い込んで持っていたクーラーボックスを肩に掛けなおした。
(昴くんと、ひこちゃんと、ワンコちゃんズと、それからカラスくんが帰ってきてるっていってたっけ。なんて名前だったかな・・・ぬ・・・ぬ・・・、ねばねばみたいな・・・)
友泰はそんなことを考えながら、指を折って人数を数えた。クーラーボックスには中元でもらった水羊羹が六つ入っている。お裾分けに持っていって、今日こそは何も不穏なものを連れてきていないことに胸を張るつもりでいた。
「昴くーん!」
石段を二段飛ばしに軽快に駆け上がって、友泰は拝殿に呼びかけた。しかしそれに応える声のない、しんと静まり返った境内。ざわざわとかすかに揺れる木立の音だけが耳に入ってくる。
「あれ・・・出かけてるのかな?」
友泰は辺りを見回した。明るい日差しが燦々と降り注いでいる鳥居の下には、両の狛犬の姿もない。空の台座に木漏れ日が揺れている。その上昴もいないとなれば、ただの外出ではないのだろう。何かあったのか・・・尤も好奇心だけで不用意にそれを探ることはしないが・・・
「な、な、な、そこの兄ちゃん。」
友泰は不意に自分を呼び止めた子供の声に、もう一度境内の中を見渡した。ぐるりと一回り、だがどこにも子供の姿はない。
「どこを見とるんじゃ、こっちじゃ。」
声は友泰の右後方、境内の外れに生えている榊の木の方から再び聞こえてきた。見ればそこには、縄でぐるぐる巻きに縛られて木に吊されている子供の姿があった。一目でただの人間の子供でないとわかる。五歳くらいの小柄な体には水干を纏い、丈の短い藍の袴から突き出た裸足の足には草履を履いている。髪の毛は四角四面に綺麗に切り揃えられたおかっぱ頭で、何がおかしいのか、糸目は常に目尻が上がっている。その上髪の間から覗く耳は、まるで兎のそれのように長く尖っては飛び出していた。
「ど、どうしたの?君・・・」
友泰は訝しげにその子供に近寄った。"お人好しもいい加減にしてくださいよ"・・・、そういった昴の言葉が頭をよぎって、友泰はその子を可哀想だとすかさず思ったが、ならべくそれを表に出さないようにした。
「オイラ、悪い奴らに捕まったんじゃ。な、兄ちゃん、この縄解いてけろ。」
子供は体を振り子のように揺さぶって、あっけらかんとした声色で友泰に頼んだ。縛られて吊されている割には、かなり余裕があるように見える。声だけを聞いたなら、そのまま鼻歌の一つくらい歌いだしてもおかしくないとさえ思えた。
「君・・・本当に捕まったの?悪い奴らって誰?」
「悪い奴らは悪い奴らじゃ!オイラ何もしてないもん!な、な、解いてくれろ。」
「・・・と言われてもなぁ・・・」
昴に許しを請おうにも、未だ帰らざる狛犬と青年。果たしてこの子供の縄を解いて良いものなのか。
「ああ痛い!痛いのう!縄が食い込んで体がちぎれそうじゃ!」
そんな友泰の心情を読み取ってか、子供はますます体を揺らしてわざとらしく喘いで見せた。友泰は困った表情で木の下を見遣る。いくら余裕があるように見えても、ぐるぐる巻きに縛られているのは実に痛々しい。大体にしてこんな子供を縛りあげて何になると言うのか。そもそも昴がこのような非道な真似をするはずがあろうか。"悪い奴ら"をはっきりと明言しないのも、子供であることをふまえれば曖昧であっても仕方がないこと。だとすると、双姫神社に助けを求めに来たところで、不意に何者かに捕まったと見るべきか。この子供が助けてほしくて彼の帰りをずっと待っているのだとしたら・・・
「・・・本当に何もしていないんだね?」
「そうじゃそうじゃ!」
「それなら・・・」
友泰はだいぶ迷った挙げ句、数歩子供に歩み寄ってその縄に手を伸ばした。
「駄目ですよ、友泰さん。」
不意に背後から止められて、友泰は僅かに体をびくつかせて振り返った。心の深層にじんわりと響きわたっていく心地よい声、単身痩躯の細い体・・・そんな人物が予期せず突然現れたとなると、たとえ男であっても胸に高鳴るものを覚えないわけにはいかなかった。
「あ、わっ・・・と、昴くん・・・」
「その縄を解いては駄目です。」
「あ、あ、あー!お前ー!」
昴の姿を見るや否や、子供は癇癪玉のような声を上げた。するとやや遅れて姿を現した二人の狛犬が踊り出て、吊されている子供に低く唸った。これではどう見ても昴が"悪い奴ら"だ。
「え?え?じゃまさか、これは昴くんが・・・?!」
「ええ、これはとても悪いことをしたので、今お仕置き中なんです。」
「悪いこと?お仕置き?」
「何を言うかー!オイラは何もしてないもん!な、兄ちゃん!」
「へ?あ、そうだっけ?」
「友泰さん、それの言葉に耳を貸す必要はないですよ。無視してください。」
昴は努めて冷静に、とても突き放した言い方をする。普段の穏やかな雰囲気はそのままでありながら、同時に目の前の吊されている子供に対する嫌悪感を露わにしていた。
「さ、今日は何を持ってきたんです?」
「で、でも、昴くん・・・」
昴は双姫を台座に帰し、何事もなかったように友泰を拝殿へと促した。
「おい、お前ー!オイラを下ろせ、ヒキョー者!」
体をまた振り子のように揺さぶって、子供は悪態をつく。昴は肩越しにちらりと一瞥すると、罪悪感にさいなまれている友泰に「友泰さん」と一言釘を刺した。それでも尚、友泰は昴と子供を見合わせて落ち着かない。
「やれやれ、それじゃ訳を話しましょうか」
その彼の様子に、昴は根負けして肩を落とす。そんな昴のどこか落胆した表情も気にならず、友泰は不謹慎にも心の中では嬉しかった。尤も、何に理由もなしに昴がこのような非道な真似をするはずがないとは、信じていたけれども。
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