梅雨の休みの晴れ間ほど、青空が恋しいときはない。雨が空気中の塵や埃を全て洗い流してくれるおかげで、初夏の空はこと映えて見える。心地よい湿気を含んだ風は、肌に当たってはひんやりと涼しく、大きく息を吸い込んで肺の中の空気さえ全て入れ替えたいと感じる。一人、境内にでていた昴は、雨が降る間に流れ着いてきていた葉の固まりを竹ぼうきで清掃しながら、何度も空を見上げていた。風に揺らめく木々の枝が、変幻自在に木漏れ日を作り出す。時折目を刺す光さえ、今は心地よい。
「ほ、ほーい。昴よーい。」
するとどこともなく、男性にしては甲高い声が聞こえてきた。いつものことではあるが、境内にいるのは昴一人で、他に人を呼び止めるような存在はない。厳格な二人の狛犬が僅かに尾を振ったように見えたが、当の本人である昴はといえば、呼ばれたことに気がついていないのか、なおも空を見上げている。しかしややあって、その声に応えるように昴は手を掲げた。
「やあ、ぬばたま。」
空へ一言、そこへ黒い影が静かに舞い降りる。烏の濡れ羽色といえば、光の具合によって玉虫色に輝く美しい漆黒のことを言うが、昴の目の前に降りてきたのはまさしくそれであった。少し小柄な体つきではあったが、その羽はクジャクにも劣らない美しさをたたえた一羽の烏。他と最も違うところは、昴の近くの灯籠に降り立った瞬間、三本目の足が出てきたこと。昴が漆黒の実を表す「ぬばたま」という名で呼んだのは、少しひょうきんな振る舞いのやたがらすであった。
「ずいぶん久しぶりだね。里帰りしたまま帰らないかと思ったよ。」
「ほ、ほーい。ちょいと回り道をしたでのう。高尾の天狗殿が昴のことを話しておったわい。たまには顔見せに参れとな。」
「そうか・・・天狗殿は怒っていた?」
「いんにゃ、便りがないのは無事な証拠。それは天狗殿もよう知っておる。あれは単に天狗殿の寂しがりじゃな。それにほれ、昴に渡すよう持たされたわ。」
ぬばたまはそう言うと、どこに隠し持っていたのか三本目の足で古い巻物を昴に差し出した。昴は僅かに首を傾げたが、素直にそれを受け取って開いてみる。
「おや・・・これは天狗殿も随分変わったものを寄越したね。」
「ほ・・・こりゃこりゃ・・・」
昴の手元をのぞき込んで、ぬばたまも納得したように呟く。巻物の中身は誰が書いたのか、絵師の素性の分からぬ古い絵。鎌倉の頃とおぼしき、どことも言えぬ場所・・・武将が一人、胸を槍で貫かれて事切れた場面であった。
「む・・・まあ、天狗殿も無意味に寄越しはせんだろうて。」
「そうだね。でもこれは尚のこと、お参りに行かないといけないね。夏の盛りは避けたいものだけど。」
昴はくるくると器用に広げた巻物を巻いていく。その赤い色がとてもおどろおどろしく見えて、ひとまず目のうちから外そうとしたのだった。
「高尾は紅葉が一番じゃ。その頃に行くが良い。」
ぬばたまは羽を広げて二・三度ばたつかせると、「その時はわしも行くぞい。」と本音を付け足した。山の木々が色づく頃には、様々な木の実が我も我もと熟していくので、ぬばたまはそれにお目にかかりたいのであった。
「なんじゃ、誰かと思うたらぬばたまか。」
境内の話し声に気がついて、ひこばえが拝殿の軒先に顔を出す。この心地よい気候にいくばくか眠っていたのか、片目をこすりながら外を見遣る。
「久方ぶりじゃのう、ひこばえよ。残念ながらお主に土産はないぞい。」
「・・・期待なぞしておらぬわ。」
「ほほ、相変わらず意地っ張りじゃの。砂糖菓子に目のないお子さまが。」
「なんじゃと?!」
「こら、二人とも。」
昴の戒めに、ひこばえは少し赤らいだ頬をプーッと膨らませ、ぬばたまはまた羽をばたつかせた。二人は昔からお互いに嫉妬しているのだ。ひこばえは自分より年長のぬばたまの方が昴との付き合いが長いことが嫌で、ぬばたまは子供のひこばえが最も長く昴と一緒にいるのが嫌なのだ。昴はこれまで幾度もお互いの言い分が致しかたないものだと言って聞かせてきたが、負けず嫌いの二人はそれでもなかなかに譲らないのであった。
「いい加減にしないと、今度は僕がへそを曲げてしまうよ。そうなったら砂糖菓子も紅葉もお預けだからね。」
「・・・すまぬ。」
「・・・面目ない。」
昴の柔和は叱咤に、ひこばえもぬばたまも罰が悪そうに呟いた。昴は出会ってこの方、その微笑みを崩すことも大声で怒鳴ることもなかったが、それだけに少し伏し目がちにして冗談めいた戒めは、絶対に聞くべしと強く思わせるのであった。
「ん・・・?」
昴はふと何かに気がついて、もう一度空を見上げた。相変わらず爽快な青空を白い雲がゆっくりと流れていく。誰の目にも平和に映る静かな時。しかしそれでも昴は僅かに眉間にしわを寄せた。
「ぬばたま、お前高尾から一緒に何を連れてきたんだい?」
「ほ、何じゃい?」
「黒南風(くろはえ)だ。せっかくのお天気だったのに。」
そよぐ風の中の湿気が増して、生温かい風が南から吹いてくる。今感じているひんやりとした感覚は、単なる体感温度ではなく不気味な証。空は見る間に黒雲に飲まれていき、一筋の光だに通すまいとする強固な意志を見せているようであった。
「あれまぁ・・・こりゃぬかったのう。帰って早々だったが、すぐにでも連れてここを離れるわい。」
「いや・・・、これも何かの縁だろうし僕がやろう。ぬばたま、君の羽を一枚もらうよ。」
昴は羽ばたいていたぬばたまからその美しい羽を1枚受け取ると、灯籠に竹ぼうきを立てかけた。その間にも黒南風はどんどんと強くなり、境内の木々を大きく揺らしては音をかき鳴らす。昴の流れるような黒髪もまた、それにならって何度も様々な方向へと揺れ動いた。
「佐保、竜田。」
昴が一声呼びかける。すると忽ちのうちに、鳥居の側に鎮座していたはずの石の台から、狛犬が駆けてきた。二人とも嬉しそうに喉を低く鳴らし、昴の両側にすり寄る。
「さ、二人とも。参拝の方が来てしまったから・・・やってくれるね?」
昴が尋ねると佐保と竜田は「承知した」と言わんばかりにフンッと鼻を鳴らし、また境内を風になって馳せた。境内は黒南風の運んできたじっとりとした風を存分にかき回し、いつしかその風景を高尾の山中へと変えていった。
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