「…っ…?!」
そこまで話したところで、途端に昴は何かに気がついて、素早く後方を振り返った。傍らの佐保と竜田も、警戒に激しく喉を震わせている。
「佐保、竜田。」
その警戒を解かぬようにと念押しする。まがまがしいこの気配は、太助の言っていた男に間違いあるまい。
「兄ちゃん、どうしただが?ワンコも…何か怖ぇのけ?」
「おいで、太助。」
昴は言葉も途中に、かつて太助の母親がしたであろう行動に出た。太助の手をぎゅっと握り直し、茅花野を駆け抜けていく。佐保と竜田はその背後を守るように、しっかりと後ろに付いていた。ザザザザ…と四人が茅を掻き分ける音が響くが、もう一人の気配に反してその音は聞こえてこなかった。おかしい…確実に背後を追ってくるようであるのに、今や不穏な気配はそれだけに留まらないように思えてくる。
「二人とも、分かるか?!」
走りながらそう問いかけたが、佐保と竜田も昴と同じ心持ちなのだろう。グルルル…と低い唸り声で返答する。
「兄ちゃ…、オラ、おっ転ぶだ…!」
昴の足に付いていけず、もつれた太助が言葉通りに倒れ込んだ。同時に繋いだ手が解けて、昴は余分に数歩重ねる。
「太助…!」
素早く踵を返し、もぞもぞと起き上がる太助の元へ駆け寄った。
「兄ちゃん…後ろ…!」
ガサッと突然の物音と共に、落ち武者のような男が姿を現した。それは予期せず今まで走っていた方向から。ボロボロの鎧、およそ生きているとは思えぬ土気色の肌と朽ちた体。白く淀んだ瞳がしかと昴と太助を捉えている。
「逃がさんぞ、餓鬼ぃぃ…!!!」
何度それを繰り返したか、腐った凶刃を振り上げ襲い掛かってくる。昴は咄嗟に太助を抱え込んだ。
「ガウゥッ…!」
そこへ一喝、鋭い獣の声が響く。危険を察した狛犬たちが、疾風のごとき勢いで前に踊り出たのだ。佐保は朽ちた男に食いかかり、竜田は間に割って入る。
「うわ…っ…あぁああ…やめろぉ…っ…!!」
佐保の牙と爪に、男は遮二無二体を震わせた。しかしそれで狛犬から逃れられる訳もない。
「ワンコ?ワンコたちけ?」
危機にひんして尚無邪気な太助を抱き寄せて、昴は狛犬と男の姿を見せないようにした。刀を取り上げようとした竜田の牙によって、今や男は隻腕に成り果て、喉元に食らい付いた佐保の力で首はもげんばかりであった。
「佐保、竜田。」
“そのままやってしまえ”と昴が名を呼ぶ。二人はそれを忠実に受けて、辛うじて緩めていた牙を容赦なく突き立てた。
「が…っ…!うぎゃあああああぁぁぁ…っ…!」
凄まじい断末魔の悲鳴が茅花野中に響き渡り、男の体はボロボロと崩れていった。元々生きるものに非ず、その様はまるで朽ちた人形が風化していくが如く、風に吹かれて消えていく。肉片が果てて一瞬だけ見えた白骨も、焼けすぎた木炭と同様にパラパラと砂へと姿を変えて、跡形もなく無くなった。ただ風がその砂を吹き飛ばして、茅を波立たせる。佐保と竜田が男の立っていた場所を入念に嗅ぎ回り、それがひとしきり済んでから昴を見遣って“フン”と鼻を鳴らした。
「ご苦労様、二人とも。」
それを確認して、ようやく昴は太助を放した。少々息苦しかったか、昴の腕から解放されて太助は大きな深呼吸を繰り返した。
「おっかねぇおっちゃんはどうしただか?」
ヒーフーと呼吸を整えて太助が尋ねる。
「もう消えてしまったよ。」
「…あのおっちゃん、誰だったんかな?」
太助はそう呟きながら遠くを見つめた。今となっては分かるまい、いや、分からぬままの方がいい。おそらくはこの茅花野での小競り合いで負傷したつわもの。死にかけてさ迷っていたところに太助親子を見つけ、これ幸いと殺して持ち物を奪ったまでは良かったが、程なくして男自身の命も尽きたのだろう。その無念の思いが魂を茅花野に縛り付け、“やり直せる”と希望を抱いた時のまま、いつまでも凶刃を振るっていた。円満なやり方ではなかったが、太助に手を出せなかったことで、ようやっと男の無念も潰えたろう。そして同じく魂を縛り付ける無念の思いなら、太助の分も解いてやらねばなるまい。
「さ、もう痛い思いをすることはなくなったんだ。思いきり駆け回ってきてごらん。ほら、佐保と竜田も一緒に行っておやり。」
そう三人を促すと、それぞれが嬉しそうに返事をして走り出した。太助の笑い声が茅のさざ波にまるで歌のように聞こえている。昴はそれを暫く静かに見つめていた。どんどんと小さくなっていく三人の姿は、間もなくして茅花野の果てに消えていった。
「…これで大丈夫ですよ。」
ややあって昴は誰にともなく呟く。
「あの子の事は佐保と竜田が送って行きましたから、程なくして輪廻にたどり着きましょう。貴女は先に行って、あの子を迎えておやりなさい。」
そう言いながらゆっくりと歩いて、茅の波頭に辛うじて姿を見せる朽ちた刀の前で足を止めた。深々と地面に突き刺さり、刃も鞘もボロボロになっているにも拘わらず、未だそそり立つ一差しの刀。その下には俯せの姿勢でバラバラになった白骨があった。
「さぞかし心配だったことでしょう。一人茅花野にあの子を残すことになって、その行く末を案じるが余り無念だけを残してしまった。あの子はそれを頼りに貴女をずっと探していましたよ。けれどそれももう終いです。」
昴は更に数歩近付いて、突き刺さる刀の鞘を掴んだ。
「茅花野に え忘れじの 置き形見 朽ちても抜けぬ 思いの刀は」
そして一気にそれを引き抜く。すると一瞬だけ、その白骨の元の姿が見えて優しく微笑むと、空中に吸い込まれるように消えていった。昴は手に持つボロボロの刀を見遣った。この茅花野で、雨風にも負けず刺さっていた刀。朽ちても抜けぬ…これこそがまさに思いの刀だったことだろう。
「…どうぞ安らかに。」
この数百年苦しんだその代わりに。昴が呟くと、茅花野は霧が晴れていくように薄らいで、いつもの境内が徐々に見えてきたのだった。
「…さて」
完全に双姫神社に戻って、昴は拝殿の横の宝蔵に向かった。携えたままの刀を収蔵するためだった。宝蔵にはそうやって鎮めてきた骨董品が並んでおり、先日の香炉もひこばえの手を離れた後は、そこに収められていた。
「長い外出だったの、昴。」
拝殿の横をすり抜ける途中でひこばえが話し掛ける。
「双姫もなかなかに強引だったではないか。」
「そうだね。二人は子供に弱いからね。」
だからこそ遠く感じた太助の心を、どうしても放っては置けなかったのだろう。
「…蔵の中もだいぶ揃ってきたのぅ。あといかほどで満杯になる?」
「さぁね、まったく見当もつかないよ。」
「痴れ者め。」
ひこばえは悪態をついていながらも、クスクスと悪戯に笑う。昴もそれに合わせて不敵に微笑み返した。
「しかしあれじゃの、狛犬不在の神社とは冴えないのぅ、昴よ。」
ひこばえの言うとおり、いつもは鳥居の下に控えているはずが空の台座では、何か物足りなく感じる。二人はまだ太助を送っている最中なのだ。
「なに…暫くすれば、元のように座っていることだろうよ。」
双姫神社の中を爽やかな風がすりぬける。ざわざわと木々を揺らすその音の中に、楽しそうにはしゃぐ太助の笑い声が聞こえていた。
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