ポカポカと麗らかな皐月の始めは、家の中より日差しの下の方が暖かいもの。誰もがそんな屋外に出たくなる日和に、昴もまた境内に出て散り花の名残を掃いていた。開花の遅かった今年の桜は、卯月の終わりが葉桜で、皐月になってようやく枝に花がなくなっていたのだ。双姫神社の桜もとても見事に咲いてはいたが、それを楽しめたのは贅沢にも昴と双姫神社に住む者たちだけで、桜は彼らに看取られて、静かに今年の花を散らしたのだった。
「…駄目だよ。」
そんな桜の木の下、昴が不意に呟いた。しかし境内には相変わらず人の気配などない。
「二人がそこにいなかったら、誰かが来た時に不審に思うだろう?」
その言葉に返ってくるのは、低く唸る獣の声。雰囲気から“否”の心境が読み取れる。
「……言ってくれるね、二人とも。」
昴はそれを聞き取って苦笑を浮かべた。そうさ、確かに参拝客など来るはずもない。ある一人を除いては、今まで誰ひとり立ち寄った人などいなかった。尤もオフィス街とは全くの反対方向で、その上駅からも離れているとあれば、それも無理のないことではあったのだが。
「…分かったよ。少しの間だけだからね。佐保、竜田。」
ややあって小さな溜め息と共に昴が根負けすると、途端に一迅の風が吹いて大きな犬が二匹現れた。毛はくるくると巻き毛の鋭い目つき。太く短い足には爪が生え、口元には牙も見えている。その出で立ちはまさしく狛犬。昴が日頃境内に向かって呼んでいた名は、この二人の狛犬のもので、それぞれ阿形を佐保、吽形を竜田と言った。それは元々春の女神の佐保姫と、秋の女神の竜田姫にあやかったものだったために、この神社が“双姫”と呼ばれるようになったのだった。
「仕方のない子たちだね、二人は。」
そう言って昴がしゃがむと、佐保は体を擦り寄せ、竜田は昴の腕の下へと頭を滑り込ませた。それはまるで甘えるような、または我が儘を詫びるような仕種だった。
「いいよ。少し駆け回っておいで。」
すると二人は意味深に喉の奥を震わせて、境内を疾風のごとく走り出した。
「…?どうしたね?」
それを不審に思った昴の言葉をよそに、さらに二人は速度をあげた。巻き上がる風は境内全体を包み込む。昴はその風に思わず目をつぶったが、次の瞬間にはまたどことも知れぬ場所に佇むことになっていた。
そこはススキに似た植物が波立つ平野だった。少し背の低い茅の野原。茅花野…その言葉が実に相応しい。360°見渡しても山が遠くに一つ見えるだけで、建物はおろか電線の一本だに存在していなかった。着ている服装もこの間とは違う。直垂姿でいるところをみると鎌倉か室町か、その辺りの時代と見える。紫の生地に散りばめられた黄色い家紋、帯刀はしていたが実用的ではなく、正装用と見受けられた。
「あの仕種はこういう事だったのかい?」
ややあって茅を掻き分けて戻って来た佐保と竜田に、昴は鋭く尋ねた。二人は罰の悪そうに控え目に彼を見遣る。それはひこばえと全く同じ能力ではあったが、座敷童子が家という媒体を必要とするのに対して、二人は境内の中を媒体にするものだった。
「本当に仕方のない子たちだね。いいよ、少し歩こう。」
二人も無意味に時空を越えるようなことはしない。おそらく何らかの因果を感じたからであろうが、この広い茅花野、ただ佇むだけでは何も見えてはこないのだ。
昴は暫く二人を連れだって歩いたが、行けども行けども茅の波が続くばかりであった。だがそれでもいくばくかは見えてくる。時代が違っていなければ、まだ開拓されきっていない関東北部のどこかなのだろう。今は茅の並ぶこの平野も、昔は戦場になっていたに違いない。背の低い波頭の合間には、地面に突き刺さったままの刀や、折れた矢の残骸が見て取れた。なんと哀しい静かな平野。誰ひとりの気配もない。
「…兄(あん)ちゃん、誰だ?」
そこへ小さな子供の声がして、昴は驚いて振り返った。誰もいないと見間違うのも道理、それは茅にやっと背が届く小さな子供だった。
「驚いた。ずっとここにいたのかい?」
「んだ。オラは太助だで。兄ちゃんは誰だ?」
「僕は昴と言うんだ。」
「そのワンコは兄ちゃんのけ?」
「そうだよ。白毛が佐保、赤毛が竜田だよ。」
「可愛いのぅ。」
太助はそう言うと、佐保と竜田の頭をぽんぽんと撫でた。二人はそれに尾を振って応える。
「兄ちゃんはいつもの人でねぇな。」
ややあって太助は昴を見上げて切り出した。
「いつもの人?」
「んだ。いつもはおっかねぇ男の人でな、オラをいつも追い掛けてくるんだ。オラ、逃げるだどもいつも“痛い”ってなるんだで。」
「怪我をするのかい?」
「それが分からねぇだ。“痛い”っておっ転ぶだども何ともなくてな、また起き上がれるんだ。でも少しするとまた男の人が来て、また“痛い”ってするんだで。」
「…そっか。」
太助のたどたどしい言葉をゆっくりと聞いて、昴は意味深に頷いた。傍目には太助が何を言っているのか分からなくとも、昴にはその深意が分かりかけてきていた。
「太助はどうしてここにいるんだい?」
たった一人で広い茅花野、迷い込むには見通しがいい。
「オラ、母ちゃんと来たんだで。」
「母ちゃんは?」
「分からね。はぐれだだよ。オラ、母ちゃんがオラを呼んでる気がしてるだども、ずっと探してるのにいねんだ。」
「それは困ったね。」
「兄ちゃん、一緒に探してくれねか?」
「いいよ。」
そう言って太助の手を取ると、太助はとても嬉しそうに跳びはねて歩き出した。長らくこの地に一人きりだったのだろう。小さな手がぎゅっと握り返している。
「太助は何故母ちゃんとここまで来たか、知っているのかい?」
昴が問い掛けると、太助はきょとんと彼を見返して、それから小さく“うーん”とうなった。
「父ちゃんが死んだで、母ちゃんは相模の国に行くと言っただが…」
「それを途中ではぐれたまま?」
太助は僅かに頷いた。
「それじゃあ、母ちゃんとはぐれる前の事は覚えてる?」
昴が質問を変えると、今度は空を見上げるようにして再びうなる。
「うーんと……走った…で。」
「どこへ?」
「分かんね。ただ母ちゃんがオラの手さ持って走っただ。オラもうんと走っただども、ちっとも追い付かねかった。それからは…覚えてねぇだ。」
太助は顎が胸に付くくらいまで俯いて、消え入る言葉の最後に小さく「痛い」と呟いた。それがおそらく最期の最後に思ったことなのだろう。
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