秋の草花が奥ゆかしく咲いて虫の声が満月に映える夜も、霜がおりる凍える夜も、この年ばかりは独りで過ごすことが多うございました。祥助様はご自身がおっしゃったように、お勤めで省からお帰りにならないこともあり、お会いするたび心労の重なっていくご様子に心配が募る毎日でした。祥助様はそれでも毅然としていらして、私に疲れを見せぬように配慮してくださってはいるのです。けれどそのお心遣いも胸を痛めるものならば、いっそお疲れの具合を全て知ってしまって癒して差し上げたいと、よく思ったものでした。私は庭に立って、小さな木を見つめました。輿入れの際に植樹した梅の若木は、この冬花を付けるでしょうか。もしこの梅の咲いたなら、その芳しい香りが祥助様のお心を和ませるでしょうに。私はそれをひたすら願っておりました。

 

「椿さん、お体に障りますよ。」

 

不意に縁側からお義母様にそうお声を掛けられて、私は振り向き腹部に手を充てました。私には既に祥助様との子が宿っておりました。十月十日、それに違わず生まれてくるなら、ちょうど桜の咲く頃になりましょうか。特有の体調不良は随分成りを潜めていましたから、私はよく庭に出ておりました。いずこであろうと、庭に寄せる思いは良太郎さんに繋がるものでしたから、私の最も落ち着く場所だったのです。

 

「お心遣いありがとうございます、お義母様。けれど体は随分楽なのです。」

 

「あぁ…それでも師走の冷たい風は体に毒ですよ。お上がりなさいな。」

 

私はそのお言葉に素直に「はい」と頷いて、縁側へ上がりました。するとその直後にお義母様は何かに気がついて、「あ」と私に振り返りました。

 

「そういえば椿さん、里帰りはいつなさるの?大晦日(おおつごもり)から年明けは大変に忙しいものですから、この師走の早い時期に一度お帰りになってはいかがかしら?」

 

そう言われて私が答えにあぐねていますと、お義母様は「これからますます身重になるのだし、今のうちにお父上にお会いするべきですよ」と付け加えました。確かにこれ以上日を重ねては、旧家へ帰るのも至難の業。父や総子さん、とりわけヨネに、この身に宿った幸せを見せたいものでもありました。

 

「祥助さんには私からお伝えしますよ。あの人も貴女の体を気遣ってやみませんから、一度旧家に帰って心落ち着けてくるのだと知れば、いくばくか安心するでしょうし。」

 

「そうですね…。それではお言葉に甘えます。」

 

私はお義母様のお心遣いを受け入れて、ほぼ二つ返事にうなずきました。お義母様の仰るお言葉に、私の脳裏には祥助様のお顔が浮かびました。あちらにもこちらにも気遣ってしまう祥助様のご心労は、きっと大変なものでしょう。私はその夜、早速文をしたためました。旧家へは数日の内に帰省する旨を一通、そして不在の祥助様にも同様に一通。どうぞ私をそのご心配の荷車から、一度下してくださいな、と。

 

 

 

 

 

 

年も暮れかかる師走の寒さは、他のどの月にもましてひどく身に染みます。私は両家の承諾を得て、かつては見慣れていた道を人力車に乗って見ておりました。この道は女学校から帰る道。結婚と同時に去った女学校は、今はどのようになったことでしょう。尤も当時既に複数の学友に見合いの話がありましたから、もう幾人かは私と同じように女学校を去ったのかもしれません。懐かしい道、懐かしい胸の痛み、懐かしい笑顔。あぁ…あの方は…良太郎さんは、今頃どうしているというのでしょうか。毎日祥助様のお具合もさることながら、私は姿の見えない良太郎さんも気掛かりでなりませんでした。無論祥助様にそれを問うことは、大変に致しかねるもの。それでも祥助様には私の思うところがお分かりになったのでしょう。庭の木を見上げていた私にそっと、「巷の若者が戦場に赴きました。今は南洋の島々か、中華民国の一端か。けれどいずれ戻りましょう。」と、一般には知られぬところを教えてくださいました。未だ戻れぬのでしょうか。尚も外国での戦は続くのでしょうか。年が明ければすぐに春になって、花は再び咲き誇ります。私にもちゃんと春の訪れの予感がありますのに、花が一輪足りないだけで満開になどなれぬのです。

 

「奥様、着きましてございます。」

 

ややあって車は藤宮の門前で止まりました。私は腹部を庇いながら、前傾になった車から踏み台を使って降りました。家を離れてまだ半年というのに、その門前のなんと懐かしいことでしょう。時間を見計らって迎えてくれたヨネの変わらぬ姿に、私は彼女の手を強く握りました。

 

「お嬢様、その後お幸せのこととお喜び申し上げます。」

 

「ありがとう、ヨネ。」

 

私はその言葉に再び腹部に手を宛てがいました。今や幸せは目に見えるものとなって、近いうちに生まれいでるのです。愛しい方との間にこうして結晶ができたことに、私は女の幸せを噛み締めておりました。

 

「では奥様、明後日にお迎えに上がります。」

 

「えぇ、お願いします。」

 

そうしてぺこりと頭を下げた車屋を見送って、私はヨネとともに懐かしい旧家の門をくぐりました。

 

 

 

 

 

庭は金木犀の残り香も消えて、既に冬の様相でした。常緑樹だけが寂しげにくすんだ緑色を見せています。間もなく椿と、それから梅と。あれから一年が経つのだと思うと、胸中は大変に感慨深いものでした。

 

「お嬢様、本日はちょうど庭の冬支度の日でございます。」

 

不意にヨネはほつりと口にしました。私は瞬時にそれと察して、大きく脈打ったのを感じました。

 

「で…では、あの方が…?」

 

そう尋ね返しますと、ヨネは目線を落としてから庭の一角を指し示しました。見慣れて懐かしい「七」の文字、少し前掲姿勢の後ろ姿は、未だ健在の七枝屋の老頭領でした。私はそれでも引かれるように小走りで向かいました。七枝屋の頭領ならば何かご存知でいるのではと、心が急かしていたのです。

 

 

 

「頭領。」

 

私の呼び掛けに、頭領は筵を巻いていた手を止めて振り返ります。

 

「や、これは椿お嬢さん。随分ご無沙汰で。」

 

そして深々と頭を下げてから、私の体の様子に「恙無くお幸せのようで、何よりでさ」と付け加えました。

 

「変わらず藤宮の庭を手入れして頂いてありがとうございます。…その後はいかがですか?」

 

「なに、大分アタシも年が辛くなりましてな。アタシにゃここが最後の仕事場になりやしょう。」

 

「……良太郎さんは、どうしておいでですか…?」

 

私は控え目に問いかけました。本当はその答えを知ってはいたのです。未だ戻らぬ優しい人、今頃どこになど誰も知る由もないのに。頭領はふっと小さく溜息を交えますと、そのまま私に背を向けてもう一度木に直りました。

 

「あいつぁまだ出掛けたまま戻らねぇんで。師走は正月飾りの準備で忙しいから、それまでには必ず戻れと念は押したんですがね。」

 

そして微かにその肩を震わせて、「まったくあいつぁ間の抜けてるのがいけねぇ」とおっしゃいました。私はそれ以上何も言うことができませんでした。

 

 

 

 あぁ…どうかあの方の無事に戻らんことを。

 

 

 

そうしてぎゅっと固く瞼を閉じました。その中を柔らかく微笑んで振り返る良太郎さんの姿がよぎります。「大丈夫ですよ」…今最も聞きたいその言葉を、私は胸が痛くなるほどに強く願うしかなかったのでした。

 

 

 

    

 

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