大正三年水無月の大安に、私は伊集院家に嫁いでいきました。総子さんは「ヨネも伴なわせてはどうか」とおっしゃいましたが、私はそれを拒みました。決して自分に厳しかった訳ではありません。ただ藤宮の家に、実母・百合江のいた証を残しておきたかったのです。総子さんは「そうですか」と、相変わらず感情を表に出さずに一言おっしゃいましたが、その後小さく「貴女ももう大人になったのですものね」と呟きました。
「おかあさま…」
「貴女のお義母様は伊集院家にいらっしゃいます。私は今日からはただの女です。…いいえ、慰めは不要です。」
「…では、総子さん。」
私がそう呼び留めますと、総子さんは驚いてもう一度私を見遣りました。私は今まで無理に「お継母様」と呼んでいたよりも、素直にお名前でお呼びした方がどこか落ち着く思いがしました。総子さんはきっと最初からお継母さま≠ナはなかったのです。私にとっては憧れにも似た年上の女性だったのでしょう。その方が私を大人になった≠ニ仰ったのです。私はとても嬉しかったのです。他の誰でもなく、総子さんの口から聞いたからこそ私の心に大きく響いたのです。
「ありがとう…ございました。」
私が腰を折りますと、総子さんは少し切なげな目線で私を見つめてから、何も言わずにご自分のお部屋へと戻って行きました。あとから聞いた話では、総子さんは自室で声を押し殺して泣いていたそうです。天涯孤独…鈴なりになって咲く花には決して分からぬその心。総子さんにとっても、私は継子とはまた違ったものだったのでしょう。
婚礼の日、私は実母が召していた白無垢で身を飾りました。父やヨネはそれをどう御覧になったのでしょうか。かつては嫁いできたものをこうして見送ることに、ヨネは小さく「長生きはするものじゃありません」と呟きました。私より少し背の低いヨネの姿は、綿帽子の影から常に覘きます。ヨネは私にとって、母とも祖母とも違う存在でした。彼女の目線が絶えず伏してあったのは、その目が涙に赤くなっていることを隠すためだったのでしょう。私はそんなヨネの手を、別れ際にそっととりました。相変わらず暖かく、そして沢山のしわが刻まれた愛しい手。それはこんなにも小さなものだったでしょうか。
「お嬢様、末永くお幸せに。」
「ヨネ…」
とうとう手は離れ、私は輿入れの籠に乗り入れました。そして小さな窓からなおも振り返ります。ヨネはいつものように深々と腰を折りました。一度だに顔を上げず門前に立って小さくなっていくそんなヨネの姿に、私は籠の中でも何度も涙を拭ったのでした。
伊集院家は最初こそ辛いものに感じましたが、それもほんの一時のことで、幼いころから男兄弟のなかにあったお義母様も、初めての女性の家族に次第に私を本当の娘のように思ってくださるようになりました。椿は依然武家にとっては不吉な花。けれど明治十年に西南戦争が終結して以来、内戦の鎮まった世相に、それも薄れつつある概念なのでしょう。未だその庭に椿の花はあらずも、私が輿入れしてからというもの、お義母様が頻繁に椿油をお使いになっていることが、大変に嬉しく感じられました。祥助様はそんなお義母様を見て口元に微笑みを浮かべながら、「母もあれで繊細ですから、素直に気持ちを伝えることが出来ないのですよ」とおっしゃるのです。よもやあの日の庭で聞いた会話を、互いに忘れた訳ではありませんでした。だからこそ一線を引くものも、分かち合えるものも共にあったのです。
真に穏やかな、安寧の日々。かつて泣き出したあの帰り道で、良太郎さんが「大丈夫ですよ」と言って下さったことが、幸せの内に脳裏をよぎります。七枝屋は私が嫁いだ後も、変わらずに藤宮の庭を整えておりましたが、旧家へ里帰り出来ぬうちは道すがらお姿を遠くから拝見するだけでした。しかしそれで良かったのです。自由に咲く花を愛でる良太郎さんがまた、自由にのびのびと過ごしていらっしゃることが、私にとっての幸せでもあったのです。ずっとこの時が続けば良いのにと、心底願いました。しかし…
「戦…ですか?」
ある日お勤めからお帰りになった祥助様が、私に声を潜ませておっしゃいました。この太平の世にあって随分久しく聞かなかった言葉。私は祥助様から受け取った上着を持ったまま、動きを止めて尋ね返しました。
「そうは言っても外国での話だけどもね。そこに我が国も関与していきそうな風潮なのだよ。」
「祥助様も…戦場へ赴くのですか…?」
「いや、それは分からない。だが省が指揮をとることになるだろうから、帰れない日もあるかもしれない。すまないが、堪忍しておくれ。」
そう言われて私は事情をよく知らぬまま、ただ「はい」と頷きました。それは同年文月の、俗に言う第一次世界大戦。それを聞いたのが、葉月の終わりのこの日のことでございました。そしてそれから程なくして、道々で時折お見かけすることのあった良太郎さんの姿を、とんと見ぬようになったのでした。