美しく咲けども花の、むじょうにも散るらむ。

 

 

無常だからこそ、花は何度でも美しく咲き誇ることが出来るのです。もし花があのまま常にあったなら、私の涙はこうして止むことはなかったでしょう。無常とは守りたいものであると同時に、自由そのものでもあるのです。

 

 

 私はお二人のあの言葉を同時に噛み締めて、我が家の庭で祥助様をお待ち申し上げておりました。卯月の今は下旬となって、ぽかぽかと暖かな初夏の陽気に心が和みます。私の心は大変に落ち着いておりました。先日まであれほど祥助様にお会いすることを恐れていたことが、まるで嘘のように晴々としています。花は咲く場所を選ぶこともできる=cあの日ヨネが示してくれた別の道に首を振って、あるべき庭を選んだことに、後悔は微塵もありませんでした。ヨネもそれを察しているのでしょう。ただ何も言わずに、私の傍らに控えています。

 

「…お嬢様、お見えになりました。」

 

ややあって掛けられた言葉に、私はゆっくりと振り返ります。葉桜の下、未だハラハラと舞い落ちる花びらの向こうに、待ち望んだ方の姿がありました。

 

「祥助様。」

 

私がお呼びしますと、祥助様は緊張した面持ちでこちらに歩み寄りました。祥助様のお考えになっていることは少しだけ、私にも分かります。ですから私は祥助様に微笑んで見せました。いつの日も私を気遣って下さった祥助様に、私も同じようにして差し上げたかったのです。

 

「こんにちは、椿さん。」

 

「こんにちは、祥助様。今日は突然に御呼び立てして申し訳ありません。」

 

「いえ、滅相もない。またこのように庭園にお招き頂いて、とても嬉しく思います。」

 

そう言って祥助様は、少しだけ弱々しい笑みをお浮かべになりました。そんな上背のある祥助様を覗き込むように、私はまっすぐに見つめました。

 

「本来なら桜の満開の頃に、この庭にお招きしたいものでした。今はもう葉桜になってしまいましたが、このような桜もお好きですか?」

 

「そうですね…、これもまたおつなものと感じます。」

 

そのお言葉に私はにこりと笑みを浮かべて、「少し庭を歩きましょう」と申し出ました。ヨネは私たちを送り出すように、そのままの位置で深々と頭を下げました。思えばこの庭を、祥助様と一緒にこんなに落ち着いていられるのは、初めてのことでございました。花はこれほど美しかったものを、見上げずにいたことが大変に惜しく感じられます。けれど来年もその次の年にも花は咲くもの。この次の折には心行くまで見上げようと思うなら、今は花の赴くまま、散らしてやるのが優しさというものでしょう。

 

 

 「花の咲く頃は、祥助様とお会いした日のことを思い出します。」

 

私は来年の満開の桜をまぶたの裏に描きながら、そう申しました。それは梅の香に私を重ねて下さったことと同じように、花の咲く胸躍る様が祥助様を思い起こさせるのです。まだありありと覚えています。あの高鳴る胸の感覚を、最初に感じたのは間違いなく祥助様でした。そしてそれを思い出させてくださったのは良太郎さん。お二人との出会いがどれだけ大切なものであったか、今更ながら再確認するのです。

 

「覚えておいでですか?あの日、祥助様がお尋ねになったこと。」

 

「えぇ、勿論です。」

 

「私はあの時、結婚とは女の幸せだと申し上げました。それは今も変わらぬ思いでおります。」

 

そしてそうであって欲しいと強く望むのです。花が何の束縛を受けずに、自由に咲き誇るように。

 

「けれどあれは私の言葉ではありませんでした。あの言葉は女中のヨネが私に言って聞かせたもの。私は言葉の意味を何も分かってはいなかったのです。結婚≠ェ女の幸せなら相手は二の次で構わないと、きっと心のどこかで思っていたのでしょう。とかく私も薄情な女だったのです。しかし…」

 

 

 

たった一本、椿の花を。

 

 

 

 結婚≠ニいう言葉にとらわれて現を抜かしていた私に、良太郎さんは真に人を想うことを教えてくださいました。今を以って尚、そんな良太郎さんを思うと胸が締め付けられます。どこかぽっかりと欠落したものを感じるのも確かなのです。しかしそれを失ってさえ、多くのものを得たと考える私がいるのでした。

 

「あの方は…良太郎さんは、純粋に椿≠ニしての私を好いてくださいました。私はその時初めて、人を一途に想うことを知ったのです。それまでの私がいかに小さなものであったか…、あの方にお会いしなければ今も分からないままだったでしょう。」

 

あるがままを受け入れて、自由であることが美しいと、いつも微笑んでいらっしゃいました。いずこの庭を選んでも、花は花、少しも変わりはしないのだと強く請け負ってくださいました。そんな良太郎さんを想う気持ちを、私は生涯忘れることはないでしょう。

 

「…行くのですか?あの…植木屋の青年のもとへ。」

 

祥助様は躊躇いつつも、核心をついてお尋ねになりました。哀しげな切れ長の瞳が私をまっすぐに見つめます。

 

「いいえ。」

 

私はゆっくりと、そのお言葉に首を振りました。

 

「いいえ、私はそんな良太郎さんを知ったからこそ、同じような心で祥助様に一生を添い遂げたいと、そう思ったのです。」

 

私は揺るぎない瞳で、同じように祥助様を見つめ返しました。最高の幸せなど、この世には存在しません。けれどこれこそが私にとって、円満の幸せなのです。どうして誰かの幸せを奪っておきながら、自身に幸福が訪れましょう。それは私にも、祥助様にも、良太郎さんにさえ等しく言えることなのです。良太郎さんはちゃんと分かっておいでだったのでしょう。自らは身を引いて、相手の幸せを感じることもまた一つの幸せなのだと。その上で私の背をそっと押してくださったのです。私はそんな良太郎さんの優しさを胸に抱いて、いかなる時も私にまっすぐな祥助様の誠実なお心に応えることが、真の幸せなのだと思わずにはいられませんでした。

 

 あぁ、そのことの何と有り難いことでしょうか。普通の人がどちらかを無くしてしまうものを、私は二つとも手にすることが出来たのです。もしも一方が祥助様でなかったら、或いは良太郎さんでなかったら、有り得ぬ幸せだったことでしょう。

 

「…よろしいのですか?我が庭は椿の花を咲かせずにいた土地。」

 

辛い思いをさせてしまうくらいなら、最初から植えぬことを望むのです。

 

「何をおっしゃいます。あれは言葉のあやと、そうおっしゃったではありませんか。」

 

私はあの時は辛く聞こえたお言葉を、希望を添えて口にしました。祥助様は未だ不安の面持ちでしたが、次第にそれも晴れていくように見えます。いずこの庭でも花は花、

 

そう…自由に咲くことが出来るなら。

 

「だから…椿でなくてもいいんです。藤の花でも梅の木でも、桜でもよいのです。あの剛健なお庭に、藤宮の花を一輪、添わせては頂けませんか?」

 

どうぞそのおそばに、「椿」という名の花(わたし)を召しませ。そう祥助様にお答えを委ねますと、小首を傾げるように祥助様のお言葉を待ちました。今までいつも心に抱えていた「所詮…」などという卑屈な気持ちは微塵もありません。清々しい思いが心いっぱいに広がっているのです。祥助様もそれがお分かりになってか、最初は呆気にとられた表情をなさりながらも、段々とそれを綻ばせていきます。

 

「是非そう致しましょう。椿さん、貴女に似合う庭になるように。」

 

祥助様は安心したように、いつもの精悍な微笑みを取り戻しますと、私の手をそっと取ってくださいました。私も「はい」と確かなお返事を返して、祥助様の瞳の奥を見つめます。それは葉桜の名残花がはらはらと散る卯月の終わり、この年一番の麗らかな日のことでございました。


 

 

 

    

 

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