たった一本、椿の花を。
あの時良太郎さんが率直にそうおっしゃったことが、私にはこの上なく嬉しい事でございました。それまで結婚とは藤宮の娘≠ニしてするものであって、椿≠ナはないのだと思い込んでおりました。いえ、それが正しいことだとは今も変わらぬ思いでおります。藤宮の娘≠ニして嫁ぐことが、父や松江叔母様、ひいては藤宮家全体にとってどれだけ重要なことなのかは、子供の私とて察するところなのです。その上相手の方が祥助様とあって、それ以上を望むのは贅沢、そもそもそれより上などあるわけもないはずでした。
けれど、柔らかな笑顔…ざんぎりの猫っ毛。いつの日も、泣き出しそうな私の心を慰めてくださったのは良太郎さんでした。その方がたった一本の椿の花を望んで下さったのです。あの心持ちをいかに表現いたしましょう。あれに勝るものなど、本当に見つからないのです。
「お嬢様。」
ヨネは相変わらず静かに庭に佇んでいた私に歩み寄って、微かに私を呼びました。私は目に滲む涙が引くのを少しばかり待って、ゆっくりとヨネに向き直ります。
「…なんでしょう、ヨネ?」
「お嬢様、花は咲く場所を選ぶこともできますよ。」
そう言うと、ヨネはふと目線を庭の隅へと向けました。私を実の孫娘のように思ってくれるヨネが何故そのように申したのか、私は彼女の言葉を不可解に思いながらも、その目線の先を追いました。
「良太郎さん…」
思いがけず胸に秘めていた方の姿をとらえて、私の足は自然と彼の元へ急ぎました。何かを決意したわけではありませんでした。ただ心が私を良太郎さんの元へと急かすのです。私はヨネに言葉を返すことすら忘れていました。ヨネが言った言葉の真意すら探ることもできないまま、この胸は張り裂けんほどに切ない気持ちで溢れていました。
「良太郎さん…!」
私が息を切らして名を呼ぶと、良太郎さんは相変わらず眩しい笑みで「こんにちは、お嬢さん」とおっしゃいました。まるで先日の何もかもがなかったかのように、いつもと変わらぬ柔和な微笑み。あぁどうか、そんなお顔をなさらないで下さいな。せめてその微笑みに影の一つだに落としては下さいませんか。私は忘れたくなどないのです。あの時のお言葉を、私は……
「良太郎さん…あの、私っ…先日の…」
途切れ途切れに続ける私の言葉に、良太郎さんは少し首をかしげるようにしてただ優しく微笑みます。その胸中に一体何を思っておいでなのでしょう。私がすべてを言いきらないうちに、「あの時の椿の花ですか」と落ち着いた声でおっしゃいました。
「あれは恙無く育っていますよ。今は無理でも、いずれ花を咲かせやしょう。」
「い、いえ…違うのです…!」
私は顔をくしゃくしゃにしながら首を横に振ります。胸からこの辛い思いがこんなにもあふれ出てしまいそうですのに、言葉はそれに反して喉の奥で止まってしまうのです。喉はまるで押しつぶされそうなほどに痛みます。私はそれを堪えながら、必死の思いで口火を切りました。
「良太郎さん……いけませんか?!あの……、あの私…っ…!」
私と良太郎さんとではいけませんか=Aそう続けるつもりでいながら、再び口は紡がれてしまいました。どうして…どうしてその先を言えないのでしょう?!歯痒い思いに体の奮えさえ感じます。
「心配には及びやせんぜ。あの椿はお嬢さんのものですから、必ず返しますんでさ。」
「り…良太郎さん…」
もはやこれ以上何を申しましょう。はっきりと分かりました…、良太郎さんは先日のご自身の言葉に次ぐ私の返事を拒んでいらっしゃるのです。良太郎さんはきっと、何もかも分かっておいでなのでしょう。私の思いも、私の立場も。すべてを踏まえた上で拒むのです。財閥の一人娘と、まだ駆け出しの植木屋の弟子。この溝がどれだけ深いものだというのでしょう。風に舞う花びらなら、どのような高い生垣も風に乗って越えていくというのに。
「…すんません、お嬢さん。」
何も言えなくなってしまった私の耳に、ふとあの言葉と同じくらい神妙な良太郎さんの声が聞こえてきました。
「お嬢さんの大事な花を、僕が預かることになってしまって…」
私は思わず真っ赤な顔をあげました。とても哀しげで、とても柔らかな声が、私の頑なな心に染み渡ってきます。
「本当は…花の咲く前にお返しするつもりでした。花が咲いてしまうと、手放せなくなってしまうから…」
良太郎さんは自嘲的にほつりほつりと呟くと、そのまま天を仰ぎました。つがいの小鳥が、その目線の先を楽しげに飛んでいきます。それを見ると良太郎さんは少しだけ微笑んで、もう一度私を見てくださいました。いつもと変わらぬ柔和な笑みが、私の心を締め付けます。
「…ごめんなさい……ごめんなさい、良太郎さん…」
こんなになってまで、貴方を選ぶことが出来ない私で。いっそしがらみを全て捨て去って、ただの椿の花となれたなら、どんなに幸せだったことでしょう。私は涙を滲ませて、胸の辺りで重ねた両手を固く握りしめました。もはや心はボロボロで、傷付いて傷付けて、一体何が正しいのかさえ分からなくなってしまいました。自由を好む良太郎さんがおっしゃったように、私も自由になれたなら…
「お嬢さん、以前僕は自由に咲く花が美しいと言いました。」
良太郎さんはそんな私から一瞬目を離して、優しい声ではっきりとおっしゃいました。私はそのお声に、固く閉じていた目を開けます。
「だからお嬢さんが、今ここで伊集院の若旦那を選ぶのも、僕は一つの自由なんだと思いますよ。」
その変わらぬ思いを示すように、良太郎さんは私に向き直って今まで以上に優しい満面の笑みを浮かべました。私はそのお言葉に何もかも救われたような気持ちがして、どっと涙が溢れたのを感じました。しかしそんな大粒の涙に反して私の心は大変に穏やかで、口元にはうっすら笑みさえ浮かぶのです。私は「終わった…」と思っておりました。あぁ、これで良太郎さんへの想いは最後なのだと。けれどそう思ってさえ、尚笑みを浮かべることができたのは、良太郎さんがどのような決断をしたとしても私を美しいと言ってくださったからでした。私もそんな良太郎さんの自由なお志を、生涯忘れることはありません。この世に常世の花があったとしたなら、それはきっと互いの心に咲いた変わらぬ思いのことを言うのでしょう。
良太郎さんはそんな私を見ると、安心したようにまた微笑みになって、何もおっしゃらないまま片付けた枝を抱えてその場を後にしようとなさいました。互いに少し俯いて、その顔を見合せないように。けれど良太郎さんがすれ違ってすぐに、不意にばらばらと枝の落ちる音を聞いたかと思うと、背後からふわりと体を包み込まれました。あまり背の高くない良太郎さんの猫っ毛の先が、私の耳をくすぐります。袖をまくった腕が私の前で交差して、暖かな掌が両肩をしかと抱いています。私は驚きのあまり、直立不動のまま何も言うことができませんでした。
「お幸せに、お嬢さん。」
そう小さく呟いて今一度強く私の体を引き寄せますと、それからすっと離れていってしまいました。良太郎さんが落ちた枝をもう一度拾いあげて藤宮の門まで歩いて行った後にも、私は体に残る暖かな感覚に、暫く微動だにすることもできなかったのです。