最後の一本の花を生け終わると、私は小さくため息をつきました。

 

「花の目前で憂きため息はよしなんし、椿さん。」

 

池上先生はそう私を窘めて、「せっかく生けた花も枯れてしまいます」と釘を刺しました。良太郎さんと祥助様から同じようなお言葉を聞いてから数日、麗らかな花散る季節とは裏腹に、私の心は沈みがちでございました。継母の総子さんは、何もおっしゃってはくださいません。ただいつものように毅然としていらっしゃるばかりです。このような折、実母ならばどのようにしてくださったのでしょう。そんな叶わぬ夢に虚しさが益々募ります。

 

「…花はまこと正直なものでありんすな。」

 

ややあって池上先生は呟くようにおっしゃいました。

 

「ぱっと仄かに咲きほころびたかと思えば、もう舞い降り始めてしまって。お天道様も恵みの雨も、何を断たれたわけでもないのに。」

 

そうでしょう?≠ニ問い掛けるように、池上先生は小首を傾げてこちらをご覧になります。

 

「…先生、同じ季節に花は二度咲きますでしょうか?」

 

私は未だ心の晴れぬまま、池上先生に尋ね返しました。花が落ちきってしまえば、桜は葉桜へと姿を変えます。落ちた花は二度と戻らず、また次の春を待って新たな花が咲くのです。同じ枝先には戻れぬものと知るならば、花はどのような気持ちで散っているというのでしょう。

 

「まぁ、おかしなこと。」

 

そんな私の気持ちに反して、先生はにこやかに微笑みました。

 

「私にはまだ、花は枯れていないように見えます。むしろ、よく見れば未だ咲いていない遅咲きの蕾がありましょう?」

 

「遅咲きの…蕾、でございますか?」

 

艶やかな花びらに控えてはいても、ひっそりと蕾は隠されているもの。よくよく見れば、庭の満開を過ぎたはずの桜にも、丸い小さな蕾はあるのです。唖然とした私に向かって、池上先生は優しく胸に手をお当てになりました。すると私の目にその古傷の残る小指が止まりました。ずっと尋ねることを躊躇ってきた、その小指の傷痕。今なら聞けるでしょうか。私は一瞬目を伏せてから、ぐっと気持に勢いをつけて口火を切りました。

 

 

 

 「池上先生、私…お聞きしてもよろしいでしょうか?その…先生の小指の…」

 

「…ああ、これでござりんすか?」

 

池上先生は胸に充てた手を持ち上げて、流れるような目線でご自身の小指をご覧になりました。

 

「椿さんは花魁の指切りをご存じでありんしたか?」

 

「はい…昔、小耳にはさんだことがありました。」

 

最初にその傷に気がついたとき、私は何も知らないままヨネに尋ねたのです。するとヨネは手招きをして私の顔を寄らせると、そっと花魁の指切りの話を耳打ちしたのでした。

 

「そうですね。今の椿さんになら、お聞かせしたくもござりんす。」

 

そう仰ってまた優雅に微笑みになると、池上先生はさらにきちっと座りなおりました。

 

 

 

 「この指…私がどなたに捧げようとしたのか、椿さん、想像できますか?」

 

池上先生がそう仰るので、私はしばし考えましたが、先生が元花魁だったことを踏まえれば、その答えは実に容易いものに思えました。後に「花魁」と呼ばれるようになった、太夫という位。それは大変に高いもので、その呼び名の発祥が朝廷での五位朝臣の別称にあやかったことも含めると、一般の客にはどうやっても手の届かないものに違いないのです。教養高く、和歌・連歌・碁や琴にも精通していた太夫。池上先生はかつてその位の花魁でいらしたのですから、それに見合うだけの財と力を持った方だと考えたのです。しかし池上先生にそれを申し上げると、先生は微笑みを絶やさぬままゆっくりと首を横に振りました。

 

「遊郭に妓夫(ぎふ)という身分の働き手がいたことはご存じでしたか?」

 

「妓夫…ですか?」

 

「えぇ、女を買うことなく、ただひたすらに遊郭で働く男性たちがいたのですよ。…私がこの指を捧げたかったのは、そんな妓夫の中のお一人でありんした。」

 

そしてしみじみとした表情で大事そうにご自身の指を見遣ると、池上先生は次のように当時のことをお話しになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今からもう四十年ほど昔の話になりましょうか。私は吉原で池芳太夫と呼ばれ花柳界を闊歩しておりました。幼いころは、それはそれは貧しく苦しい生活をして、その上で飛び込まざるを得なかった花柳界ではありんしたが、華々しく豪華な世界は私にとって最後の居所のように思われました。世の女性の中には夜伽で身を売る花魁を蔑む人もあったでしょうが、花魁にはそれぞれ気高い誇りがあったのです。花柳界において花魁はただの人であってはならないとは、遣手婆様に初めに言われた言葉でござりんした。花魁は俗世に生きる人に非ず、花魁は宵の夢に咲く花であれ…、そのことがいかに難しくまた、そのようになれた時にいかに女が美しくなるものか、それは花柳界に身を置いていなければ分からないこと。私も花柳界に生きる女でしたから、たとえ吉原という限られた狭い世界でも、太夫という地位に登りつめて世を謳歌していることが大変に誇らしいことでした。挙句の果てには、世の男性など私を輝かせるための道具にすぎないとさえ、おこがましくも思うようになっていたのです。

 

けれど…逢瀬をともにしたこともない一人の男性が、そんな私を変えたのです。武骨で仏頂面、無口で何を考えているのか分からず、笑うことが苦手な…一人の不器用な妓夫。他の花魁たちは、そんな妓夫をさも無いものであるかのようにあしらいましたが、私はその妓夫が心に留まって仕方がありいせんでした。世の女性が花魁を蔑むように、世の男性はいかに美しい容姿であっても、何人のも男と関係を持つ花魁を純粋に女として愛することは稀でしょう。花魁は花魁、体の関係があってこそ愛してくれる…宵の花になると決めた以上、私はそれでも構わないと思っておりました。しかしあの妓夫だけはそのようなことはありいせんでした。私が毎夜どのように過ごしているかを知っていても、それでも一途に私に仕えてくれたのです。いつも多言一つせず、私の体ではなく私の目をいつも強く見つめてくれました。ああ、一体いつからそのまっすぐな眼差しをいとおしいと思うようになったのでしょう。私はこの生涯変わりようのない想いを妓夫に伝えたくて、ある夜小刀を手に妓夫のもとを訪れたのです。どのような身分の違いがあってさえ、想う心に間違いはないのだと、妓夫に指切りをしようと思ったのです。それなのに…

 

 

 

 「…なりやせん!池芳太夫、それだけはなりやせんぞ!」

 

妓夫の声のするあたりは、既に小指の骨に当たるまで刃を突き立てた私の血によって、赤く染まっておりました。

 

「どうそ…どうそお止めにならないでくださいましな…!この私の心、分かっては下さいませんか?!」

 

痛みを堪えながら、涙ながらに私は懇願しました。しかし妓夫は私の持つ小刀をはたき落して、その濡れた手を握りしめました。

 

「いけません!貴女は花魁…その意味が分かりませんか?!」

 

「身分が…この身分が邪魔と仰るなら、私は捨てる覚悟で…」

 

「いいや、そうではございやせん、太夫。」

 

妓夫はさらに強く手を握り締めて、大きく首を横に振りました。

 

「花魁は花の魁(さきがけ)=cこの吉原で何よりも先だって美しくあらねばならん花が、その花びら1枚だに無暗に落としてはならんでしょう。」

 

「花はいつか花びらを落とし、枯れていくものでありんす…!」

 

「いいえ、太夫。確かに花はいずれ花弁を落とすもの。けれど…」

 

一度言葉に詰まってから、妓夫は私の瞳の奥を覗き込むほどに強く目線を合わせていいました。

 

「太夫、私は土です。花を支える土に他なりません。土は其処ら中に沢山あるもので、汚れておるのです。泥となって飛び跳ねれば、綺麗な着物をも台無しにいたします。花の魁は、そんな土の上に花弁を落としちゃなりません。どなたかの掌の中に舞い降りるべきなのですよ。」

 

そう言って、とうとう妓夫は泣き崩れる私から指切りを受け取ることなく、きつくさらしを巻いてその場を後にしたのでした。…

 

 

 

 

 

 

「…私はあの時、あれほど愛したはずの妓夫を大変に恨みました。太夫という地位にあって、沢山の殿方から引く手あまたの毎日でしたから、私は自尊心を傷つけられた思いでいっぱいになったのです。」

 

池上先生は目をお伏せになって、さぞかし胸の痛む思いを抱えてそう仰いました。

 

「すると程なくして、その妓夫が病気で死んだと聞いたのです。途端に私の小指の付け根からプツンと音がして、それきり動かなくなってしまいました。妓夫はすでに自分が先の短い命だと知っていたのでありんしょう。それで私の指切りをお受取りにならなかったのです。私がすぐに未亡人となって、返り花になるのを引き留めたかったに違いありいせん。私はひどく自分を諫めました。まさかそんな優しい思いでいた人を恨むだなんて、愚かしいにもほどがあると。」

 

涙滲む目元に手をおやりになって、それを静かに拭うと、池上先生はいつものやさしい眼差しで私をご覧になりました。しかし私はその視線にお応えして、何か気の利いた言葉を言うことすらままなりませんでした。

 

「この動かぬ小指は戒めなのです。いえ、もしかしたらあの時やっと指切りを交わせたのかもしれません。この指だけはきっと、既にこの世にないものになっているのでありんしょう。」

 

それからすぐに、私は遊郭を去りました…池上先生はそよ風が花を少し揺らしたような儚いお声で話を閉めました。花の魁は役目を終えて、人知れずひっそりと散ったのです…と。

 

 

 

 「池上先生…」

 

私は思いを馳せながら、ただ一言添えました。恋多きといわれた花魁の、燃えるようなたった一つの恋の花。その証が古い傷となって残るものなら、私には何を残せるというのでしょう。できるなら、私にもそういったものが欲しかったのです。この思いを目に見えるものにできる、何らかの方法があるのなら。

 

「…けれど、椿さんが同じことをする必要はありいせんよ。」

 

池上先生は私の気持ちを先読みしてか、はっきりと言い切りました。

 

「わ、私は…ですか?」

 

「だって、椿さんは花の魁ではないでしょう?貴女はきっと遅咲きの花なのです。まだ蕾の、これから咲く花でありんす。」

 

そう言葉にしながら、先生はゆっくりと庭の方をご覧になりました。その目に葉桜になりつつある桜の木が映っております。

 

「葉に囲まれて咲く小さな花は、その形も鮮明に分かるほど美しく栄えるのです。私にはその姿がまた格別に愛らしゅう感じられます。咲くのを躊躇う花も可愛らしいものでありんす。」

 

池上先生はまた上品な笑みをお浮かべになって、優しく私におっしゃいました。ですから貴女はそのままで、背伸びをする必要はないのですよ≠ニ、池上先生の切れ長の瞳はそう語りかけておいででした。私は胸に暖かいものを感じてなりませんでした。実母が生きていたなら掛けて下さったであろう言葉を、池上先生は遠回しにおっしゃったのです。

 

 

 

 

花にまだ咲く余地があるように、道も断たれてなどいないのでしょう。道があるからこそ歩かねばならぬものを、もう駄目だと諦めて立ち止まってしまっては、いつまでも同じ場所から変わらないだけ。あの日あの時、何も出来ずにうずくまっていた私から、何一つ脱却することなど出来ないのです。祥助様にも良太郎さんにも、私の方から歩み寄らなければなりません。枝を剪定しなければ良い花は咲かないように、花を摘まなければ生けることができないように、この胸の蕾は痛みをなくしては再び実をつけることなどないのでしょう。

 

「蕾はまた少し膨らんだようでありんす。」

 

先生はとても嬉しそうにそうおっしゃいました。私は「ありがとうございます」と深々と頭を下げて御礼を申し上げたのでございました。

 

 

 

    

 

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