しがらみが家にあるのだと思うと、あれほど張り詰めるような気持ちだった女学校は、打って変わって気の休まる場所のように思われました。私の結婚は皆の知るところではありましたが、いかんせん祥助様を知ってはいても、良太郎さんを知らぬ学友たちでしたから、その純粋な羨望の眼差しに、自分の恵まれていることを再確認する毎日でした。痛む心も贅沢品と思えば、これ以上の慰めはないでしょう。思えばあの宇治十帖の浮船も、同じような心持でいたのでしょうか。非の打ちどころのない、全く異なる性質の薫大将と匂宮の間で揺れ動いていた、ふらふら惑う小さな船。さしずめ私は咲くのを躊躇ったまま、風に吹かれる小さな蕾といったところなのでしょう。あの日、私の心を初めて高鳴らせてくださったのは祥助様でした。私は本当に…本当に嬉しかったのです。あの甘く疼く心を愛しいとすら感じました。しかし今をもって、私の心の多くを預けてしまったのは、他の誰でもない良太郎さんなのです。
まったく雰囲気の異なるお二人と、それから私。宇治十帖の浮船は誰をも選べず身を投げて、助かった後も決して愛しい二人に逢瀬の橋を渡らせなかったといいます。…それはまさに夢の浮橋。あぁけれど、私は一体どうしたら良いというのでしょう。浮船のように、私はどこへも行けないのです。私は蕾、椿の蕾。このまま枝から離れてしまったら、二度と咲くことはできないのです。現状は八方塞がりのように思えました。いっそ今すぐ種となって、どこの庭にでも行けたなら、こんな私でもまた違った花を咲かせることができるのでしょうか。私はそれを思いながら、重い足取りで女学校から帰っていたのでした。
「椿さん…!」
そんな風に心ここにないままに歩いていた私の耳に、不意にあの時と同じ声が聞こえて参りました。遠くから近付いてくる足音と、低く響く美しいお声。間違うことなく祥助様…途端に足のすくむ思いがして、私はその場から微動だにすることができなくなりました。呼吸はひどく浅く早いものになります。
「良かった…やっとお会いできました。」
そう言って走り寄る祥助様に、私は一瞬にして救われた気がしました。詰まりそうだった呼吸はふっと楽になって、徐々に視点も元に戻っていきます。これほどまでに懸命に会いに来て下さったことに、祥助様の変わらぬ御心を拝見したと思ったのです。けれどそんな思いに反して、私はぱっと目を逸らしてしまいました。先日の御母堂様のお言葉がありありと私の頭に甦ってきたのです。頭の中から響いてくる声は、どのようにして遮るものなのでしょう。耳をふさいでは逆に大きく反響してしまいそうで、かといって頭を振っても出ていくことを知りません。ここ数日、私はその良い方法を探しては頭を垂れておりました。忘れたくとも、どうしても忘れることができません。祥助様はそんな私をご覧になって、全てを察してしまったのでしょう。とても哀しそうなお声で「…申し訳ありませんでした」と呟きました。
あぁ…違うのです、そうではないのです。私は祥助様のそのようなお言葉を聞きたいとは、露ほどにも思っておりませんでしたのに。それならばいっそのこと、あの時の何もかもをなかったことにして、いつものように優しく精悍な微笑みを見せていただきたいものでした。そうしたならば、この重い気持ちの全てを忘れることもできたでしょうに。
「…今更母を許してくださいとは申しません。」
祥助様は未だ低い声を保ったままおっしゃいました。
「けれどあれも、決して意地の悪い女ではないのです。」
「…分かっております。」
分かってはおるのです。あの御母堂様の言葉の真意は、決して私個人を疎むものなどではなく、偏に祥助様を思うが故であったことは。どうして子を思う母の大きな愛情に、私が敵うことができましょう。元より私にはそれに勝るものなど持ち合わせてはいないのです。
私はそう思うと、ひどく悲しい気持ちになりました。そしてこのように悲観的に考える自分に嫌気がさしてしまいました。ヨネはよく謙虚と卑屈は全く違うものだ≠ニ申しておりました。謙虚は美徳だけれども、卑屈は相手を困らせただ自らを小さくしてしまう悪いことだと、常々私に言って聞かせておりました。どうせいつかは散るものと、タカをくくって咲く花よりも、散ることを知っていて尚、一時でも美しく咲こうとする花の方が、ずっと大きな実をつけるのだと言うのです。昔から消極的に考える私を、ヨネはずっと危ぶんでいたのでしょう。
あの日祥助様とお会いして大きく高鳴った胸に実ったものを、私は今自らの手で潰してしまっているのだと感じて、ひどく締め付けられるほど心が痛んだのでした。その実の種が落ちて息づき、再び芽を出すのだとして、また同じ庭に実りたいと願うものでしょうか。私にはその答えが分かりませんでした。いえ、祥助様ならばその種をお拾いになって、再び花の咲くよう世話をしてくださるとは分かっていたのです。分からないのは私の心。恥ずかしい話、私は自分の望むものを見出だすことが出来ずにいるのです。私はあまりの情けなさに溢れ出ようとする涙を、必死になって堪えました。ここで泣き出しては、芯の弱い女と思われます。あの雄々しい庭を持つ伊集院家には、そんな女はきっと不要のものでしょう。ですから強くありたかったのです。私は泣きたくなどなかったのです。それなのに…
「伊集院の庭は…」
不意に私から目を一瞬だけ伏して、祥助様は呟くようにほつりと口にしました。その言葉に私も怖ず怖ずと顔をあげ、祥助様を見遣ります。涙こらえる眉間に、強くしわを寄せながら。
「伊集院の庭は、とても武骨で華やかさに欠けていましたでしょう?」
思えばそのお言葉どおり、祥助様の家のお庭は松や竹といった常緑の、雄々しい木々で溢れておりました。おそらく武運を祈ってのことなのでしょう。枯れることのない常緑の葉は、武家に常勝をもたらすのです。これこそ日本庭園の神髄と思わせるほどに完璧な、花のない庭に僅かな違和感を覚えつつも、或いはそんな庭も好きになれるものと思っておりました。私のような者が好きになっても良いものと。けれど椿を拒む庭に、どうして芽吹くことができましょう。花は咲く場所を選ぶのです。選ぶからこそ、咲けない庭もあるものと知りながら。
「一寸の狂いもなく、常に同じくあり続ける堅い庭…けれど、そんな箱庭のような出来合いの我が家の庭にも今年、花が必要だと思ったのです。」
ふと期せずして良太郎さんと同じような言葉を聞き、私は俯きかけた顔をもう一度上げました。この瞳に映るのは、未だ少し哀しげな、けれどその中にも優しさを秘めた祥助様。私は祥助様の言わんとするところが分かりつつも、あえて同じように震える声を律しながら問いかけました。
「どのような花が…ですか?」
私にとってはそれが精いっぱいの言葉でした。すると祥助様は少し躊躇いがちに、慎重に言葉を選んでいるのが分かるようにおっしゃいます。
「そうですね…出来れば藤宮のお庭から頂戴できませんか?梅の香りのする、たった一本の美しい花を。」
それを聞いた途端に、私の胸は強く締め付けられるものを感じました。以前私に梅の香りをあててくださった、あの時の祥助様のお言葉が蘇ってきます。決して「椿」という名称を上げずとも、その意味合いが良太郎さんのおっしゃったことと寸分も違わぬものだとは分かっておりました。そしてあえて椿の花を引き合いにださなかったことが、私と御母堂様の両方を気遣う祥助様の御心なのだと。
御母堂様があのようにおっしゃってさえ、尚私を伊集院家に迎え入れて下さろうということが、とても嬉しかったのも確かなことではあったのです。けれどそれを思えば思うほど、良太郎さんの言葉の方が何度も胸中で繰り返されて、私は何も言うことができませんでした。そしてもうあれきり泣きたくないと思っていたにもかかわらず、またぽろぽろと涙が零れ出たのでございました。