「親方がこの庭を見事≠ニ言ったのがよく分かります。梅に桜に杜若、それに椿に金木犀…様々な花が互いの邪魔をすることなく、健やかに花を咲かせています。」
良太郎さんは一度手を止めて、不意に庭を見渡しながらおっしゃいました。
「全て実母の手によるもの、ですわ。実母は大変に花を好きで、植生をよく知っていたのだと女中が申しておりました。実母に愛されて咲いた花ですから、それでより美しく栄えるのでしょう。」
私はどこか他人事のようにそう言って、良太郎さんと同じように庭全体を見渡しました。実母のいた頃の庭を、私もまだ覚えております。それはそれは見事なもので、絵にして永久に保存できたならどんなにか良いだろうと、幼心にも思わせるものでした。けれどそんな実母は早世してしまって、花をあまり好きでない継母・総子さんと、それから私。花が限りを尽くしてしまうのではないかと思うこともありました。それでも誇れるほどに梅や他の花が咲くのは、偏に花を愛でる七枝屋の職人たちと、実母を偲ぶヨネがいてこそ。しかし私がそれを口にすると、良太郎さんは「それだけじゃないですよ」とおっしゃるのです。
「花の美しさは伝播するんでさ。一人が美しいと、自然と周りも咲き誇る…そういうもんです。」
「一人?」
「えぇ。」
良太郎さんはいつにも増して真剣に、剪定の枝を見つめたままこちらを振り向きませんでしたが、私は良太郎さんの物言いに人知れず微笑みました。顔がほんのりと赤くなるのを覚えて、暖かな気持ちが心を満たしていきます。
「…僕が住み込みをしている七枝屋の庭は、まるで箱庭のように小さくて、親方が仕入れた苗を並べるとすぐにいっぱいになってしまうんですけど…」
「…え?」
剪定の手を止めて、それでも尚振り向かず、良太郎さんは不意に口火を切りました。幸せな心持ちにひたっていた私は、何故良太郎さんがそうおっしゃったのか分からないまま、ただ一言問い返しました。今日の良太郎さんはどこかいつもと違います。何を考えておいでなのか、ふと趣旨が少し異なる話をなさるのです。剪定が花にとって非常に大事なもので、切る場所を間違っては逆に悪い影響を与えてしまうのだということは知っていました。しかしそれにしても、何かにとらわれて心がここにないような、とても大切なことに傾倒しすぎているような、そんな雰囲気さえ受けるのです。しかし良太郎さんはそれを承知していてか、尚も言葉を続けます。
「それでも今年、親方の許しをもらって花を植えようと思うんです。」
「…まぁ…何の花を?」
私は良太郎さんの真意を探りながらも、とにかく尋ね返しました。良太郎さんがそうして欲しいのだということだけはわかったのです。すると良太郎さんは、今日の仕事のうちで初めてこちらに向き直って言いました。
「たった一本、椿の花を。」
その顔にいつもの柔和な笑みはなく、初めて見るといえるほどに真面目な表情を浮かべていらっしゃいました。私は良太郎さんが何のことをおっしゃったのかすぐには分からず、その真剣な眼差しを見つめ返すばかりでした。しかしややあって良太郎さんの真意がそれと分かって、私の顔が火の付いたように赤くなるのを感じました。花を小さな箱庭に…≠サれは、その心は…。すると一瞬にして頭がぐらりと揺れたのです。天と地が分からなくなるほど、鼓動はドクドクとゆっくり大きく打ち鳴ります。本当はそのまま良太郎さんのお言葉に、「はい」と大きく返事をしたかったのです。心がそうしたがっているが、とてもよく分かったのです。けれど喉の手前まで言葉が浮かんできたかと思うと、踏み止まって吸い込んだ息を止めまてしまいました。
分かっています…分かっているのです。私には祥助様の元へ嫁ぐ以外にないのだと。けれどいつの時も私の心を和ませて下さったこの方の、そんな言葉を耳にしては、心が大きく揺らいでしまうのです。今何もかもを忘れて良太郎さんの言葉に頷けたら、どんなにか救われることでしょう。しかしどうして私に祥助様を裏切ることができるでしょうか。あの誠実な心根の、精悍な眼差し。全てを委ねたいと思ったことに偽りなどないのです。それなのに…!
「…すんません、お嬢さん。」
不意に良太郎さんはいつもの微笑みを取り戻して、枝切り鋏を帯にねじ込むと、落とした枝を拾い集めました。その笑顔が…再び背を向けた仕草がどこか哀しげで、私の心を締め付けます。私はそんな良太郎さんに何も言うことができませんでした。飲み込んだ言葉に息までもが止まりそうで、疼く心に目には涙が滲むのです。良太郎さんはそんな私を少しも責めることなく、ただいつものように剪定の後片付けを進めています。そして集めた枝を拾い上げて小脇に抱えると、そのまま振り返ることなく…言葉を発することもなく、私の前を後にしようとなさいました。
「待って…待ってください!良太郎さん…!」
私は思わず良太郎さんを引き留めてしまいました。掛ける言葉など何一つ携えてなどおりませんでしたのに。しかし良太郎さんは私の言葉に踏み出した足を一歩でとどめると、ややあって口火を切りました。
「そういえば…」
良太郎さんはゆっくりと目線をこちらに向けます。私は未だ鼓動が大きいまま、泣きそうな気持ちを抑えることができません。
「あの椿の花は、元気に育っていますよ。」
いつもと変わらない柔和な笑みを浮かべて、良太郎さんはさりげなくそう仰いました。だから大丈夫ですよ≠ニ良太郎さんが再び背を押してくださったのだと思うと、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになり、「ありがとうございます」と涙ながらに呟くばかりでございました。