年が明けて睦月、正月休みもそこそこに、祥助様はひどく忙しくお勤めに出掛けておりました。幸いだったのは、そのお仕事がこたびの戦を終結させるためのもので、中華民国へ出す箇条を取り纏めているものだということでした。明治の内戦を知らぬ私には、この戦は大変に長く辛いものでございました。祥助様のおっしゃる箇条で戦が終わったなら、駆り出された若者たちも帰ってくることでしょう。
私はその中に良太郎さんの姿があることを、幾度も瞼の裏に描きました。そして想像してみるのです。「どうも帰り道に手間取ったんでさ、お嬢さん」と、あっけらかんとした憎めぬ笑顔を浮かべることや、新春の日差しに茶色いざんぎり頭が揺れることを。
子を宿した体は日毎重くなり、腹帯でさえ窮屈に感じます。私は自室で椅子に腰掛け、繕い物をしておりました。その一目一目が我が子のためであり、人形に着せられそうなほど小さなべべに我が子を思い浮かべるのでした。
まことに人を思う心とは、尽きることを知りません。こうしてまだ会わざる我が子さえ愛しく思うなら、一目お会いした方へのそれは比べものにならぬもの。そして会えずにいる時間が長ければ長いほど、募っていくものなのです。
私の心に募ったものは、不動の山にすら等しく感じられます。しかしそれは一種の恋愛感情とはまったく異なるものでした。会えば思わぬものを、会えねば考えてしまうもの。もしこれが良太郎さんと祥助様とが逆であっても、きっと同じことだったのでしょう。
ただ偏に無事を祈って、再び相まみえることを願う日々。
誰もが等しく感じるであろう虚無感を、私はこの時抱えていたのです。
「奥様。」
不意に年若い女中に呼ばれ、私はぼんやりと手を止めていたことに気がつきました。
結婚して尚、深く物思いに耽ってしまうところは変えられませんでした。それでも祥助様が「そんなところも良いと思います」と受け入れて下さったことが、また一つ私を支えてくださっていたのです。私はこうしてぼんやりとしてしまう度に祥助様のお言葉を思い起こして、ほんの少しの自己嫌悪と、胸いっぱいに広がる幸福を思うのでした。
「はい、どうしました?」
私が振り返って尋ね返しますと、女中は怖ず怖ずと縁側から顔を覗かせました。
「あの…門前にお客様がお見えになっていらっしゃいます。」
「まぁ…それは困ったわ。祥助様はまだお帰りにならないようですし…」
ちょうど昨日省から遣いが遣されて、祥助様のお言付けを聞いたばかりだったのです。祥助様がお勤めに出た睦月の十日から、今日で三日が経ちます。「自分が帰らぬうちは、世を太平へ向かわせているということですから、身重の体に心労を重ねぬよう」、それが祥助様との約束でした。
しかし女中は僅かに首を横に振って言うのです。
「いえ、それが奥様宛てのお客様なのです。」
「私に…?」
よもやすぐにそれと思い当たる節はなく、私は小首を傾げました。藤宮からの遣いでしょうか。けれど、このように何の前触れもなく訪れてくるとは思えません。
「一体どなたなのですか?」
私は一瞬の思考すら歯痒く、すぐに尋ねました。
「はい、それが単身痩躯の職人らしき男性でして、奥様にお返ししなければならないものをお持ちしたとか。…これをお預かりしました。」
そう差し出されたものを見て、私の鼓動は大きく高鳴りました。それは小さな苗木、頼りない枝に一輪咲かせた椿の花。
この椿もきっと咲きます。
そんな懐かしい言葉が頭をよぎります。
「そ、その方はまだいらっしゃる?!」
私があまりに高ぶってそう聞いたので、女中はひどく驚きながら「は…はい」と頷きました。私は女中から椿の苗木を受け取って胸に抱きますと、重い腹部を気遣いつつ門前へ小走りで向かいました。
分かっています…分かっているのです。
この時をどれほど待ったことでしょう。
もはや目に浮かぶあの方の笑顔が、真の記憶のものなのか、何度も想像したものなのか区別が付かぬほど、沢山浮かんできます。涙がじわじわと滲んで目の前を霞めていくことが、ひどく煩わしくも感じられるほどなのです。私は玄関まで至りますと、置いてあった草履をつっかけて、そのまま庭を走り抜けました。
空は明るく清々しい新鮮な空気…けれど、私はそれを一度も感じることもありませんでした。はたしてこの時に呼吸をしていたのかどうかすら疑わしく思えてきます。私の心にはただ一つ、あの頃を思わせる甘い痛みがあったのです。
「良太郎さん…!」
私は今にも泣き出しそうな顔で、門から出てすぐに名を呼びました。そこには見慣れた植木職人の羽織を着て、塀越しに庭の木々を見上げている一人の男性の姿がありました。
そうして振り返る柔和な笑顔、少し痩せて、落ちない汚れのついた頬。それでどうして見間違えることがありましょう。その色素の薄い猫っ毛が、想像通りに新春の光に輝いているのです。
「どうもお久しぶりです。帰り道に手間取ったんでさ、お嬢さん。」
何度も頭に描いたのと同じ言葉のあとに、良太郎さんは「遅くなりましたけどお約束通り、椿の枝をお返しに来やした」と、すっかり開花してしまった苗木に苦笑しながらおっしゃいました。私はそのお言葉にポロポロと零れだした涙を何度も拭うと、顔をあげて良太郎さんをまっすぐに見つめます。
「いいえ、花が咲くのがずっと楽しみでした。」
そうして互いに微笑みかける、大正四年の睦月のこの日、胸元の椿の花が風に揺れておりました。
(完)