椿は花びらを一枚一枚落とすことなく、花ごと根本からぽとりと枯れ落ちます。その様が首斬りに見えることから、武家の間では大変に忌避されてきました。伊集院家は元々生粋の武家の血筋でしたし、御母堂様の旧家も同じように武家であったに違いありません。お小さい頃から椿が不吉であると言われてお育ちになったのでしょう。弁解の余地もないほどに椿の花を嫌う御母堂様のご様子に、私は俯いてトボトボと来た道を帰っておりました。

 

ほんの半刻前には空を見上げて桜の咲きそうな様子を愛で、囁きかける小鳥の囀りを楽しんでおりましたのに、今目に映るのはぼやけた自分の足元で、耳に聞こえるのは繰り返される御母堂様のお声だけでございました。ヨネは何も言わず、そんな私の後を静かについてまいります。結婚は女の幸せであれ=cそう口癖のように申してきたヨネにとっても、何も言葉にならないのでしょう。私は胸元に持った椿の蕾を見遣りました。季節を終えて尚、花を咲かせなかった遅咲きの椿。花を咲かせる幸せも知らないままに、また長い眠りについてしまった夢見の蕾は、その深緑の殻の中で何を思っているのでしょう。私にはその小さな蕾が、今後の自分を示唆しているように思えてなりませんでした。

「…私…桜が羨ましいです。」

私はふと咲きかけの桜を見上げて、誰にともなく呟きました。桜は一斉に薄紅色の花をたわわに咲かせ、そして潔く散っていく様が見事だと、誰もが口を揃えて称賛するのです。武家にとっても商家にとっても、美しく縁起の良い花。もし私が桜≠ニいう名前だったなら、御母堂様は私を受け入れて下さったのでしょうか。けれど所詮は椿、暖かな春にまみえぬ冬の花。寒空の下でいくら懸命に咲いたところで、首をぽとりと落としては、桜にはどうあがいても敵わない…想いが届くこともないのでしょう。私の目にはじわりと涙が滲んでまいりました。

 

 

 

「あれ?椿お嬢さん?」

不意に私を呼ぶ声が耳に入り込んで来て、私は顔を上げました。するとそこにはいつもの七枝屋の羽織りを脱いで、ゆったりとした袴姿の良太郎さんがいらっしゃいました。片手に小ぶりの風呂敷を下げて、どこからかのお帰りのようでございました。そのお顔にきょとんとした表情を浮かべて立っておいでだったのです。

「…どうかしたんですかい?」

良太郎さんにそう尋ねられて、私は咄嗟に顔を背けてしまいました。涙を堪えて顔のあちこちが真っ赤になっているのが分かったのです。私は初めて良太郎さんと話すときに目を合わせることが出来まず、ただその足元を見るばかりです。すると良太郎さんも何か察するところがあったのでしょう。足元だけでも一呼吸置いて思考を巡らせているのが分かります。

 

「…遅咲きの椿ですか?」

ややあって良太郎さんは趣旨の異なる質問をなさいました。

「い、いいえ…これはもう…」

咲かないのかもしれません≠ニ、私は自らの見解をどうしても繋げることが出来ませんでした。その一言がすべてを決定づけてしまうように思えて仕方がなかったのです。しかしそれがますます自分を惨めに思わせて、とうとう私の目から涙が零れました。人前で、しかも外出先で涙するなど以っての外。立ち居振る舞いは美しく、健気で気が利き、如何なることにも取り乱さない…それが由緒ある藤宮の娘であるといわれてきました。けれどそうは言っても涙はとどまることを知りません。堪えようとすればするほどに情けなく、見る間に零れた涙が手を濡らしていきました。

 

どうして…どうして…、と心が自問自答を繰り返します。何故椿という名前だったのでしょう。何故祥助様が武家のお家柄だったのでしょう。何故見合いのお話が舞い込んだのでしょう。枯れることを知っているなら咲かずにいればいいものを、何故短い命で花は咲き誇ろうとするのでしょう。蕾のままなら夢を見ながら、傷つくこともなかったのに…。

 

 

 

私は声を押し殺して泣きました。いつもなら私を窘めるヨネも、ただ口を閉ざすばかりです。私にはもう何もかもダメになってしまったように思えてなりませんでした。花には何の罪もないのに、椿すら憎く思えてしまうのです。

「…遅咲きの花は綺麗に咲くといいます。」

良太郎さんはそんな私を前にして尚、柔和な落ち着いた声で「何故だか分かりますか」と続けました。無論私は返答できず、ただ控え目に良太郎さんを見遣ります。

「それは蕾の中に秘めたものが沢山あるからなんでさ。だから咲いた時、他のどの花よりも綺麗なんです。」

そして一呼吸置いて、またニッコリと微笑んで「その椿も咲きますよ」とおっしゃいました。

「けれど…椿の季節は終わってしまいました…」

冬は明けて今は春、意固地になっていた私はつい良太郎さんの言葉を自嘲的に否定してしまいました。彼が心から慰めて下さっているのを知っていて、それでも受け入れられなかったのです。もう良いのです…もう咲かないままでも。咲いた後の散る様を、あれほど忌み嫌われるものならば、この丸い蕾のまま庭に慎んでいるべきだったのです。身の程を知らされた気分でした。もとより私のような甘い考えで、伊集院家に嫁いではならないものに違いなかったのでしょう。そう思うと、自嘲の笑みさえ私の口元から消えました。涙はまたポロポロと静かにこぼれます。

「でも、椿は木編に春と書くでしょう?」

良太郎さんは私の涙を前にしてなお、とても落ち着いた柔和な声で仰いました。そんなお声でなければ、今の私の心には聞こえてはこなかったかもしれません。私は涙眼を少し開けて、良太郎さんのお声に耳を傾けました。

「だから本当は椿は春の花なんです。いや…椿が咲く頃が本当の春なのかな?そう思うといつ椿が咲いたっておかしくはないと思うんでさ。」

そこまで一息に言い切ると、良太郎さんは私に歩み寄りました。

 

 

「その枝、僕にくれませんか?」

「…え…?」

良太郎さんの唐突な申し出に、私は涙で顔が汚れているのも忘れて顔をあげ、つい呆気にとられてしまいました。良太郎さんはいつもと変わらず茶色い髪を自由に風になびかせて、私に微笑みかけています。そしてそれ以上ねだるでもなく強要するでもなく、ただ私の言葉を待っているのです。私はその真っすぐな瞳に、言われるがままそっと椿の枝を差し出しました。良太郎さんを信じているはずですのに、小刻みに震える指先は、椿の開花を諦めていることを示唆しているものでした。

「大丈夫ですよ。」

椿の枝を受け取って、それを優しく撫でるようにすると、良太郎さんは柔らかな声で囁きました。

「藤宮の椿の花が綺麗に咲かないわけがないんでさ。この椿もきっと咲きます。」

そしてまた優しく微笑みかける良太郎さん。私はそのお言葉に何もかもが救われた思いが致しました。私の背中を後押ししてくださった暖かさに、凍てつくようだった心は溶かされて、私はまるで子供のように溢れる涙を拭うばかりだったのです。

 

 

 

    

 

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