弥生の空は、どこか柔らかなものでございました。初春も清々しいものではありましたが、私にはこの花咲く頃の暖かな春の方が好ましく感じられます。いずれ蒸し暑い夏にはなるものを、今はこんなにも穏やかで、無常を願うのも無理のないことのように思われました。

 

 

先の如月末の大安、私と祥助様はそこで初めてお会いした、ということになりました。互いに予めお会いしていたことは、私と祥助様以外には伊集院家の小男だけでしたので、暗黙の了解のうちに危うきには近寄らざるべきと判断したためでした。祥助様はあの帰り道でお目にかかった時と同じように、規律正しい外国の着物をお召しになっていらっしゃいました。それは松江叔母様がお持ちになった写真から出て来たようにも思えるほどで、私は粗相を致すまいと泳ぐ目線を祥助様の首元に宛てたきりでございました。祥助様は時折合う目線に、丁寧に微笑み返してくださいます。その度に何故こんなにも顔が熱く感じられるのか、私は自らの心持ちをひどく恨んだものでした。当日は正式な結婚の約束までには至らなかったのですが、私にも祥助様にもこのご縁を断る理由はなかったので、そのままお話を進めるということになりました。その時の松江叔母様の嬉しそうなこと、兄・蓮太郎の言っていたことが真であったのだと思い知るところとなったのです。

 

しかしそれからの私の心は喜々としている一方で、大変な不安をも感じておりました。未だ祥助様にお会いするたびに鼓動は激しくなるばかりで、こんな様子ではいつ大きな粗相を犯すかも分かりません。その上、見合いの席での祥助様の御母堂様が、どこかこのご縁に乗り気ではないようにも思われて、私はあの席で既に何かお気に召さないことをしてしまったのではないかと、心の重くなる思いだったのです。私は小さくため息を付きました。この心の重さを計れるならば、さしずめ米一俵といったところでしょうか。私は傍らの梅の木さえ、見上げることができませんでした。

 

 

 

 

 

「椿お嬢様。」

 

不意にヨネが私を呼び止めます。私は僅かに一呼吸おいて「はい」と振り返りました。

 

「門前に伊集院祥助様がお見えです。」

 

「祥助様が…?」

 

途端に私の胸がドキリと大きく鳴りました。

 

「如何致しましょう?旦那様はお仕事でまだお戻りになりませんし、総子様もちょうどお出掛けになっています。」

 

お二人だけで密会なさるのには賛成いたしかねます、と暗にヨネは申します。けれど…

 

「ヨネ、貴女がいてくれれば差し支えないでしょう。どうぞお通しして。」

 

「畏まりました。」

 

一体いかがなさったのでしょう?祥助様が突然にお越しになるなんて。頭の中を悪い考えばかりが錯綜していきます。そのように抱えている不安ゆえか、お会いする前から私の呼吸は浅くなるばかりでした。

 

 

 

「こんにちは、椿さん。」

 

程なくして庭に祥助様がいらっしゃいました。私は恐る恐る振り向いて、会釈に合わせて目線を外すようにご挨拶申し上げました。祥助はまたゆったりとした普段着でいらして、それでもきちんと詰めた襟元がとても凛々しく映ります。勿論そのお顔も同じようであったのでしょうが、私にはその襟元を見るだけで精いっぱいだったのです。

 

「唐突にお訪ねしてしまって、重ね重ね申し訳ありません。」

 

「い…いいえ、とんでもないことでございます…!」

 

私はまた恥知らずにも頭を大きく振りそうになりましたが、祥助様の後方、少し離れた所にいるヨネが目に入り、それをぐっと堪えました。鼓動は聞こえるほど大きく鳴り響いていましたが、仮にも我が家の庭で不躾な対応はできません。私は両の手を胸元で固く握り合わせました。

 

「今日は…いかがなさいましたの?」

 

私は一呼吸ついたあとに、小首を傾げて尋ねます。

 

「いえ…用事というほどでもなかったのですが、少し気掛かりでして。」

 

「…とおっしゃいますと?」

 

「私の母のことで、貴女が気の毒になさっているのではないかと。」

 

祥助様は少し気落ちしたような表情で、一度目線を伏せました。御母堂様…間違いなく見合いの席でのことでしょう。今でも脳裏にありありと浮かんできてしまうのです。その微笑みはどこか作り物のようで、松江叔母様の振るお話にも一歩退いたようなご返答、時折私を見遣る目には心が凍る思いが致しました。私を見定めるような仕草に、御母堂様が祥助様を大切になさっているのはよく分かったのですが、そのために私を受け入れては下さらないように思えて、このご縁に僅かな影を見たのでした。

 

「いいえ、祥助様がお気になさるほどではありません。」

 

それでも私はどうしても強がって大丈夫です≠ニは言い切れず、少しだけこの重い心内を含ませました。祥助様ならば、それをも分かってくださるとも思ったのです。本当は気に病んでおります…本当は不安を抱えております。それすらも言い出せぬような仲にはなりたくなかったのです。すると祥助様は「そうですか」と、弱々しい笑みをお浮かべになりました。そしてそれっきり御母堂様のことでは、互い口火を切りませんでした。私は祥助様がお気遣いくださっていたことが大変に嬉しく感じられましたし、御母堂様のことをこれ以上この場で申し上げることがはしたないと思ったのです。ただこの時ばかりは私の方が、より明るい笑みを祥助様に向けていたのでした。

 

 

 

 

 

 

「…梅はもう散ってしまったのですね。」

 

不意に祥助様は表情を戻して、私の背後の梅を見上げました。弥生に入って梅の木は、紅白ともに散ってしまいました。春になることの心残りといえば、この梅に他なりませんでした。暑い夏を堪えて冬の雪を忍び、そして再びイの一番に咲き誇る…それまでの辛抱とはいえ、常世の花を願ってやみません。祥助様の目も、それを思わせるように梅の木を見つめていらっしゃいます。

 

「普段は花を愛でたりなどはしないのですが、今年からはまた次の梅が咲くのが楽しみになりましてね。」

 

「まぁ…何故ですの?」

 

趣旨の異なる祥助様のお言葉の真意を、心中で探しながらそう尋ねますと、祥助様は数歩歩みいでて私の真横に並んでは、梅の木の幹にそっと触れました。

 

「貴女とお会いした時にはいつも、どこからか梅の香りがしていましたから、私にとって貴女を象徴するものに思えるのです。椿≠ウんに梅の香というのも、おかしいのかもしれませんが。」

 

けれどそんな梅の香りを好きになったのだと言いたげに、祥助様は私を真っ直ぐに見つめるのでした。私はまた顔が熱くなるのが分かって、何も言えないままにただ祥助様を見つめ返しました。その切れ長の美しい瞳から、どうしても目を逸らすことができません。いえ、逸らしたくなかったのです。やっと合わせることのできたこの瞳を、このまま釘付けにしたいとすら思えたのでした。するとややあって頭上の梅の枝から、散り残っていた紅の花びらがヒラリと私の肩に舞い降りてきました。私は目の端でそれを捉えます。

 

 

 

「…色は匂えど、散りぬるを、我が世誰そ、常ならむ。だからこそ…」

 

祥助様もその花びらに気が付いてそう呟くと、そっと手をお伸ばしになって、私の肩からひとひらの花びらを取りました。そして胸元で固く握られた私の手を緩めて解くと、その上に花びらを乗せて、私にそれを握らせるように両手で包みこみます。

 

「せめて末永く続くよう、守っていきたいと思います。」

 

そうして私に微笑みかけた強い目線に、祥助様の揺るぎない意志を感じました。すると不思議なことにそれを見受けた途端に、あの火のような心持ちが一瞬にして鎮まっていったのです。私は小さく息を吐きました。まるで息詰まっていた呼吸が動き出したかのように。そして祥助様を真っ直ぐ見つめたまま「はい」と頷きました。

 

 

 

口約束は浮世の花≠セとヨネはよく申したものでした。形があるようでないもの、よしんばあったとしてもすぐに散ってしまう儚いものだと。けれど祥助様のお言葉には何をも信頼させて下さるお力があるように思われました。ただ私だけを見つめる暖かな手の温もりに、先程まで心にかかっていたご縁の影が晴れたように感じたのでございました。

 

 

    

 

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