「藤宮…椿様…?」
「はい…?」
私は不意に背後から呼ばれ、何の気もなしに振り返りました。そして直後にその声が聞き覚えのある低く心地よいものだということに気付き、またその精悍なお顔立ちに大きく胸が高鳴ったのでした。
「い、伊集院…祥助様…」
あの帰り道で、そして松江叔母様のお持ちになった写真で拝見した方。途端に私の胸は早鐘のように激しく打ち始め、真っ赤な顔で俯いてしまいました。
「驚きました。まさか貴女だったとは。」
やはり祥助様は、ご結婚の相手が藤宮椿≠ニは聞き及んでいても、よもや私であったとはご存知ではなかったのです。
「も…申し訳ありません…」
「何故謝るのです?」
消え入りそうな私の言葉に、祥助様は小首を傾げて尋ねます。とてもお顔を拝見できる状態ではありませんでしたが、耳に聞こえてくるのはとても落ち着きのある優しいお声でした。
「祥助様があの帰り道の後も、きっとお気に病んでいらっしゃるだろうと…。私はその後すぐに、叔母に貴方とのご縁を聞きました。けれど貴方一人が、ずっとお気の毒にされているのではないかと思うと…」
すぐにでも結婚のお相手が私で、祥助様のご心配が無用のものであるとお伝えしたかったのでございます。けれどどうしてそれが出来たでしょう。お名前とお顔がわかったところで、お住まいがどちらかも知れないのに。そしてそれに託けて庭で呆けていたことに、ひどく罪悪感を感じていたのです。
「やはり貴女はお優しい。」
祥助様はそんな私ににっこりと微笑みかけてくださいます。
「お気づきではなかったでしょうが、あの日私の尋ねたことに、貴女がすべてお答えにならなかったことが、私にとっても救いでもあったのです。」
「…え?」
「顔も名前も知らなかったのだとしても、結婚が女性にとって無償の幸せと言われたならば、私にはとても荷の重いことでございました。或いははっきりそうだと仰られても、あの場では仕方のないこととは承知していたのです。…まだそれとは知らぬうちでしたから。けれど、貴女はそうはなさらなかったでしょう?」
私はよく真意を飲み込めぬままに、小さくうなずきました。
「幸せの一端を相手に預けてくださる方と思ったのです。共にそうなるようにと、歩んでくださる方なのだろうと。」
祥助様は顔を綻ばせながら、いい思い出を心に描いている時と同じ表情で仰いました。あぁ、そんな滅相もない。ただあの時はお馴染みの優柔不断にのまれて、言葉を詰まらせてしまっただけだというのに、まさかそのようにお思いになってくださっていたとは、到底思いもしなかったのです。私はますます俯きました。折角祥助様がお褒めになってくださっているのに、自分がそれにふさわしい人間だとは思えず、気恥ずかしい心持ちがしたのです。しかしそれを受けてか、祥助様はなおも言葉を続けます。
「ですから、どうか藤宮椿≠ニいう方が貴女のような方であればと願っておりました。実の所、今日は失礼を承知で結婚相手のお姿を垣間見られればと思っていたのです。そうして再び貴女にお会いできて、この上なく嬉しく思います。」
だからお気になさることは何もないのですよ、と祥助様は未だ顔を上げられないでいる私を諭してくださいました。相変わらず立ち居振る舞いの美しい長身に、今日はお勤めの日ではないのでしょうか、先日に比べれば日常的な外国の外套をお召しになっています。そのお姿が自らの白い吐息で曇りがかってしまうのが大変に惜しく思われて、私はゆっくりと顔を上げました。祥助様はただ優しく私を見つめていてくださいました。
「もし、枝が落ちまする。」
僅かにミシミシと軋むような音を伴って、あくまで落ち着いた声が頭上から聞こえてきました。そして間髪を入れずに祥助様が私の手を引いたかと思うと、直後に今の今まで立っていた辺りにバサリと松の枝が落ちて参りました。
「大丈夫ですか?」
「は…はい…」
私は枝が落ちて来たことよりも、あまりに近くに祥助様を感じていることに戸惑うばかりです。冬の寒空の下だというのに、体は火照って汗ばむ心地がします。私は何とかそれを紛らわそうと、枝の落ちて来た元を見上げました。するとそこには松にしがみつくようにしながら、きょとんとした面持ちの良太郎さんがいらっしゃいました。
「お怪我はありやせんか?椿お嬢さん、旦那。」
「あぁ…だが気をつけて給え。」
そう言って祥助様は私の手をお離しになると、落ちた枝に手を伸ばしました。
「旦那、それに触らんでください。病気にかかって虫のたかる枝です。今僕が取りに降りますゆえ。」
良太郎さんはずりずりと枝を慎重に後退しながら言葉を続けます。色素の薄い柔らかい癖っ毛の青年が、庭の枝の上を慎重に移動するさまは猫そのもののように思われました。私は良太郎さんが病気の松の枝を見つけて攀じ登り、懸命に手をのばして枝を切ったのかと思うととても微笑ましく感じられて、先程まで火の付きそうだったことも忘れてクスリと小さく笑ってしまいました。
「どうも、すみません。お嬢さん。」
程なくして門から良太郎さんがやってきて、ざんぎりの頭を掻きながら枝を取りに参りました。古い端切れに枝を巻いて、罰の悪そうに苦笑しています。その頬が少し赤みを帯びて見受けられるのは、ただ単に空気が冷えているからだけではないのでしょう。若干照れた表情が心を和ませます。
「ご苦労様、良太郎さん。まだ頭領も作業なさっておいでなのかしら?もう日暮れですから、また後日になさっては?」
すると良太郎さんはキョロキョロと夕暮れ迫る空を見回します。
「…そうですね。親方にも言ってみますんで。」
「えぇ、遅くまでありがとうございます。」
良太郎さんは嬉しそうに微笑むと、再び門から庭へ戻っていきました。
「今のはどなたです?」
その姿が庭の中に消えるのを待って、祥助様は私にお尋ねになりました。まったく性質の異なる良太郎さんをどうご覧になったのか分かりませんが、祥助様はどこか呆気にとられたような雰囲気でございました。
「専属の庭師がお連れになったお弟子さんですの。お会いするのは今日が初めてでしたが…」
「なかなか愛嬌のある男ですね。」
「えぇ、とても。」
私はそう言い切って祥助様に向き直りました。そしてそのお顔をしかと拝見した瞬間に、あの火の付きそうな心持ちを思い返して、見る間に赤面していきました。良太郎さんが私の心を和ませてくださったので、つい祥助様への心構えも解いてしまっていたのです。あぁ…なんと恥ずかしい。まるでヨネに対するように返事を返してしまうなんて。
「私といるのは緊張なさいますか?」
祥助様は少しだけ寂しそうな面持ちで仰いました。私は「いいえ、そんなことは…!」と否定をしたのですが、再び不躾に首を振るものですから、祥助様のお言葉を肯定しているのと全く変わりませんでした。私は震えだしそうな唇を噛み締めましたが、それだけでこの緊張を抑えられようはずもありません。祥助様のように立派な方を前にして、尚且ついずれそんな方の伴侶になるのかと思うと、目の前が眩むような思いなのです。それがただ緊張にだけに繋がっているのではなく、その傍らにちゃんと嬉しい気持ちもあるのだということを、態度の一つだに表すことができないなんて。私は自分が真に情けなく、じわじわと涙が滲むのを堪えることもままなりませんでした。
「…今日は忍んで参りましたから…」
ややあって祥助様は不意に言葉を代えて、もう一度私の手をそっと取りました。
「次は正式に会いに訪ねます。大安の日和…仲人様のおっしゃる通りに。本日は驚かせてしまい、大変に申し訳ありませんでした。」
そう言って私に目線を合わせて微笑みかけて、祥助様は颯爽と藤宮の門前を後になさいました。私はそんな祥助様のお心遣いに御礼を申し上げるどころか、お見送りの言葉すら口にすることができず、ただ遠ざかっていく背中を見ているしかなかったのでした。