それから数日後、私は庭に出て梅の木の下におりました。梅はちょうど満開を向かえ、その一瞬一瞬が惜しく思えるほど美しいものでございました。芳しい香が辺りを包み、時折花びらがひらひらと落ちて参ります。けれど私はそんな梅の木の更に先、冬晴れの高い青空をどこともなく眺めておりました。あれから私の心は祥助様のことでいっぱいでした。祥助様はあの時おっしゃった相手というのが私だと、お気づきになっているのでしょうか?もしそれとは知らず、今もお気に病んでいらっしゃるのではと思うと、大変に心苦しく感じるのでございました。

 

「お嬢様、そろそろ華道の先生がお見えになります。」

 

不意に背後にヨネがやってきて、私はやっとのことで空から目を逸らしました。そしてその目に映しておかなかったことが悔やまれるほどの梅が、改めて飛び込んできます。その美しさは、心の不安の何もかもを洗い流して忘れさせてしまうほど。この心苦しささえ、梅の花の美しさにとらわれてしまいます。

 

「そうね…じき部屋に戻るわ。…それよりこの梅を今日のお稽古に使えないかしら?ヨネ、貴女にあの枝をとれて?」

 

「それなら僕がとりましょう。」

 

突然に聞き慣れない男性の声が飛び込んできて、私とヨネは驚いて声の方向を見遣りました。そこには年の頃二十と思われる単身痩躯の青年が、にこにこと微笑みながら立っておりました。すこし色素の薄い髪の毛はただざんぎりにしただけのようで、あちこち好き勝手な方向を向いています。

 

「あの辺りの枝でよろしいですかい?」

 

「え…えぇ…」

 

私は彼のごく当たり前といった振る舞いに、ついどなたなのかを聞きそびれてしまいました。けれど彼は何も気にする様子はなく、手慣れた手つきで梯子をかけて登っていきます。彼の着ている植木職人独特の羽織りの背中には、「七」という文字が書いてありました。それは藤宮家専属の植木屋七枝屋(しちしや)≠フ屋号ではあったのですが、この青年自体はまるで知らない方でございました。

 

 

 

「このくらいでいかがです?」

 

「えぇ…結構よ。」

 

そう返事を致しますと、七枝屋の青年は幾本か梅の枝を携えて梯子から降りて参りました。そして最後の一段をポンッと飛び降りますと、無邪気な笑顔で私に枝を差し出すのです。

 

「はい。」

 

「あ、ありがとう…ございます。」

 

青年に花を渡されて、私の方が逆に戸惑ってしまいました。彼はただ満足そうに私に微笑みかけています。未だかつて、このように男性が純粋に微笑みになるのを見たことがあったでしょうか。私は思わずこの青年を見つめ返すばかりです。

 

「…おーい、良(りょう)!」

 

すると玄関先からこちらに向かってくる声が聞こえてきました。聞き慣れた江戸っ子気質のしわがれ声の主は、紛れも無く七枝屋の老頭領でした。大分歳を召されてはいるのですが、ヨネと同じくしゃんとしていらして、軽い足取りでこちらへ走って参ります。

 

「どうも、椿お嬢さん、女将さん。うちの若ぇのが粗相をいたしやせんでしたか?」

 

「いいえ、私のために梅の枝を取ってくださいましたわ。それより…」

 

この方はどなたです≠ニ尋ねようとして、私は一度言葉を止めました。折角善意でしてくださったのに、私が追及したことでまだ名乗っていないのか≠ニこの方がお叱りを受けてはいけないと思ったのです。するとヨネがそれに気がついて言葉を続けます。

 

「頭領、お若い方を採りましたんで?」

 

「いやなに…恥ずかしい話、アタシも歳を取りましたんでね。今七枝屋の跡継ぎにと鍛えてんでさ。中々筋は悪くねぇんで…おい、良。お前ぇ椿お嬢さんに挨拶はしたのか?」

 

「あ、まだでした。」

 

青年はそう言ってまた何も悪びれずに微笑みます。それを見てこいつぁ間の抜けてるのがいけねぇ≠ニ、頭領は苦言を漏らしました。

 

「初めまして、椿お嬢さん。僕は畠山良太郎(はたけやま りょうたろう)と言います。」

 

「あ…藤宮椿と申します。」

 

そうして一種の癖のように深々と腰を折りますと、良太郎さんはぺこんっと愛嬌のあるお辞儀を返してくださいました。

 

「なにぶんまだ鍛え始めたばかりなんでぇ、至らないことも多いかと思いますが、どうぞご贔屓にしてくんなせぇ、椿お嬢さん。」

 

「いいえ、とんでもない。藤宮の庭から、また一人腕利きの植木職人が育っていくのかと思うと、とても誇らしいことですわ。」

 

「ありがとうございます、お嬢さん。」

 

私の言葉に、良太郎さんはへへへ≠ニ少し鼻の頭を掻くようにして微笑みました。その照れたような表情や一挙手一投足が私の目には新鮮で、柔和な笑顔に僅かにとくんっと胸が鳴ったのが分かりました。

 

 

「さ、お嬢様。まもなく先生がいらっしゃいます。」

 

私はヨネに促されて彼女に梅の枝を渡しますと、軽く会釈をして名残惜しく思いつつも母屋へと歩き出しました。その間、良太郎さんは頭領に並んで私を見送っていてくださいました。そして玄関に入る前にもう一度振り返りますと、良太郎さんはそんな私の目線に気がついて、満面の笑みをお浮かべになったのです。私は途端に動悸を覚えて、はっと胸に手を宛がいました。その胸の小さな高鳴りは、梅の花のように淡く甘いものでございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よう生けてござりんす、椿さん。」

 

私が手を止めて姿勢を正しますと、華道の池上先生は一言褒めてくださいました。池上先生はヨネよりも年上の方でしたが、すらりとした美しい身のこなしは未だ健在で、白髪の混じるその御髪(おぐし)さえ芸術品のように思われます。その立ち居振る舞いに、今までどれだけの男性が魅了されたことでしょう。お若い頃、吉原にいらしたという池上先生は、お年を召してもなお若干の女郎言葉をお使いになります。かつて御職(おしょく)・池芳大夫(いけよしだゆう)として吉原一と謳われた、その気品はいかなる花も敵わないほどです。元々華道は嗜んでいらしたのか、吉原をご隠居した後は、紆余曲折を経て華道の師範となり今に至ります。花も池上先生に生けられるのなら本望のように思われてなりません。

 

「されど…何か悩みでも?」

 

一呼吸ののち、突然に池上先生にそう言われて、私は花を見つめていた目を思わず先生に向けました。悩み…今の私の心を、そんな綺麗な言葉で言いくるめて良いものなのでしょうか。心では未だ祥助様を想い、その一方で脳裏には先ほどの良太郎さんの笑顔が浮かんでいる…そんな二つの心が私の中にはあるのです。そのような心持ちでは曇るものもあったのでしょう。池上先生にはきっとそれがお分かりになったのです。

 

「…申し訳ございません、先生。」

 

私は頭を垂れて、自分の不届きを詫びました。しかし池上先生はにっこりと微笑んで「ようござりんす」とおっしゃるのです。

 

「いかなる花も正直なもの。悩みを持ってはならぬということではありいせん。私はむしろ今日のお花は大変に美しいと思いますよ。今まで良くも悪くも綺麗に枠に嵌まっていたものが、今日のは少しそれを外れて椿さんらしく見えます。」

 

「池上先生…」

 

「冬を越して花が咲くものならば、寒中に咲く花はより美しいものになりんしょう。この梅と同じでありんす。」

 

先生はそっと残りの梅の枝を手に取りますと、質素な生け花をあっという間にこしらえました。

 

「次にはどのような花の咲くのか、楽しみが増えました。」

 

そう言って上品に、けれどどこか悪戯な雰囲気を含めて池上先生は微笑みます。恋多きと言われた頃に、同じような思いをなさることがあったのでしょうか。しかしその真相の一端さえも私に掴ませないままに、「今日の所はこれにてお暇します」と、相変わらず優雅にお立ちになりました。

 

 

 

 

お見送りする門前までの長い道程は、いつもなら池上先生との会話を名残惜しくさせるものでしたが、今日ばかりはこの曖昧な心持ちに口を紡ぐばかりです。池上先生は花魁時代の身の上をあまり話すことはありませんでしたが、右手のその古い傷が残る動かぬ小指に、私はただ命を賭けたものがあったのだと悟るのでした。多くの男性との関係を持つ花魁は、その心の一途の証を細い小指に託すのだといいました。そしてその証を心に決めた方に渡すのだと。切り落としきれなかった池上先生のその想いも、今の私と同じように曖昧だったのでございましょうか。けれどそれを尋ねるにはまだ私は浅はか過ぎるように思われて、いつになってもただ先生の小指を見つめるばかりでした。

 

「お寒うございますから、ここまでで結構でありんす。」

 

池上先生は門を一歩踏みいでて、小さな会釈と共にそう私におっしゃいました。

 

「はい、池上先生。お気を付けてお帰り下さい。」

 

私は深々と頭を下げて、池上先生が角を曲がって見えなくなるまで門前に立っておりました。池上先生の仰ったとおり、如月の冷たい風が緩急を伴って吹いて身ぶるいさえも感じます。庭からは未だ七枝屋のお二人が作業をしているのか、軽快なパチッパチッと剪定の音が聞こえてきました。もう日も隠れる頃ですから、今日の所は十分ですよと申し上げましょうか。

 

 

 

    

 

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