あの方は一体どなただったのでしょう。私はとぼとぼと帰路を歩きつつ、あの方の名前すらお聞きしなかったことを気に病んでおりました。顔の火照りも大分治まり、痛くなるほどの動悸も成りを潜めています。あの時の息苦しさは今まで感じたことはなく、平常とは程遠いものではありましたが、今となってはどこか満たされた気分でもございました。「ご縁がありましたらまた」…その折りにはお名前を伺えるでしょうか?けれどその時にはきっと、一蓮の伴侶がいらっしゃることでしょう。この淡く曖昧な胸の痛みはこれきりにするべきなのだと思うと、私はますます頭を垂れるばかりでした。

 

 

 

 

 そんな心持のまま家に帰ると、玄関に緑の鼻緒の草履があるのを見つけて、私は松江叔母様がいらしているのだとすぐに分かりました。松江叔母様は父のお姉様に当たる方で、私が椿の赤い色の着物をよく着るように、松江叔母様もそのお名前にあやかって深緑の着物を好んでお召しになっていたのです。元旦でも盆でもなく叔母様がお見えになるなんて、大変に珍しいと思いつつ、私はご挨拶申し上げねばと客間へ真っ直ぐ向かいました。途中やってきたヨネに本と道行を託し、松江叔母様特有のきっぷのいい笑い声の響く障子の前で「失礼致します」とお声をかけました。

 

「あら椿さん、お帰りなさいまし。」

 

「はい、ただいま帰りました、松江叔母様。その後お変わりなきよう拝見致します。」

 

そう定例的なご挨拶を申し上げると、松江叔母様は「そうね、シワが一本増えたくらいよ」と、また高らかにお笑いになりました。父の後ろに控えるように座っている継母にはそれが耳に障るようで、微笑みは口元だけに留まっているように見受けられます。尤もおおらかな松江叔母様のこと、私は彼女が継母に辛く当たる場面を一度たりとも目にしたことはなかったので、元々物静かな継母の性格に合わないことが不機嫌の理由なのだろうと考えておりました。

 

 

 

 「ではどうぞごゆっくり。」

 

私はそう言って早々に退室しようと致しました。大人の会話に長く居座るなど、はしたないことこの上ありません。けれど今日に限っては父はそんな私に、部屋に留まるようにとおっしゃいました。

 

「ちょうど貴女の話をしていたのよ、椿さん。」

 

松江叔母様のお言葉に私は小首を傾げましたが、言われるままに室内に入り込んで障子を音もなく閉めました。松江叔母様はそんな私に、いつも以上に楽しげに微笑むばかりです。

 

「椿さんもちょうど百合江さんが嫁いできた年頃になりましたね。ますます目元の似てきたこと。」

 

「え、えぇ…」

 

私は部屋の対極に位置している継母の眉根が動いたことに、内心臆病な動悸を覚えました。継母は母・百合江の名を耳にすることを、平素大変に嫌がっていたのです。父は勿論のこと、私もそれを知ってから母の名は極力口には致しませんでした。ただ一人ヨネだけが、文字通り母の名残だったのです。けれどそれにも気付かず、松江叔母様はお話を進めます。

 

「蘭太郎さんもそろそろ嫁御を貰う頃だし、椿さん、貴女ももう適齢期でしょう?だから貴女に良い話がないかと探していたのよ。」

 

「私に…ですか?」

 

「えぇ、そうしたら聞いて頂戴。とても素晴らしい縁談を頂いたの。ちょうど貴女にぴったりだと思うのよ。」

 

そう言って松江叔母様は、益々にっこりと満足そうに微笑みます。生来の世話好きである松江叔母様は、半ば一方的にそうおっしゃると、いそいそと傍らに置いたご自分の荷物を探り始めました。私はそれを目の端で捉えながら、同時に帰り道のあの方を思い出しました。奇しくも見知らぬ女性との婚約を思わせた方…あの方が口にした「親の決めた互いを知らない者同士の結婚も幸せか」というお言葉がよぎります。そうでなければ今このように、戸惑うわけがなかったのです。常日頃に何か一つ胸の高鳴ることを…、その望みを果たすのに結婚話はうってつけだったのですから。私は思わず松江叔母様に申し上げます。

 

「け、けれど…顔も名前も知らぬ者同士、ご縁がありますでしょうか…?」

 

今ならあの方のお気持ちがよく分かります。いえ、あの方にお会いしたからこそ分かるのでしょう。そのような結婚もまた、幸せになれるものなのかと。

 

「まぁ、椿さんったら。お互いのことはこれから知り合えば良いのよ。それに私に縁談が振られたこと自体がご縁だと、私はそう思いましてよ。」

 

「そうだな、椿。お会いする前から気弱な事を申しては、先方に失礼だろう。」

 

「…は、はい。」

 

松江叔母様と父にそう言われて、私はただ頷くしかありませんでした。あぁ…まさか私にもこのようなことがあろうとは。一刻前には予想だにしておりませんでしたのに。名前もお聞きできないままに別れたあの方が、私に何かをもたらしたのでしょうか。いえ、あの時即答出来なかった時点で、既にこうなるよう向かっていたのかもしれません。ほんの少し前だというのに、あの時の私がひどく浅はかに思えてなりませんでした。

 

 

 

 

 「まぁ…椿さんがそうお思いになるのも、致し方のないこと。けれど安心して頂戴。相手の方はとても素晴らしいお家柄で、こんなものをお預かりできたの。」

 

松江叔母様はそう言って、荷物の中から探り当てた真四角の風呂敷包みを解きました。中からは桐の箱、そしてさらにその中に恭しく納められていた一枚の写真を取り出しました。

 

「ほら、これが相手の方よ。」

 

差し出された写真を手にした瞬間、私はあっと息を呑みました。細見の顔立ち、流れるような単髪、すらりとした長身は、つい先程連れだって歩いたあの方そのものだったのです。

 

「お名前は伊集院祥助(いじゅういん しょうすけ)様。御祖父様はあの鳥羽・伏見の戦いで闘神と畏れられて、御父上も日清戦争で武勲をお挙げになっているのよ。祥助様ご自身はまだ戦いに参じたことはないとご謙遜なさるのだけど、親子三代、陸軍省にお勤めになっていて、祥助様はその中でもとりわけ優秀なのですって。大正の世にあっても、お血筋は武家そのものでいらっしゃるのね。あら、椿さん。どうかなさった?」

 

写真を見つめたまま、松江叔母様のお話を半分にしか聞いていない様子に、私は虚をつかれました。よもや先頃偶然にもお会いしたと言えるはずがありません。私はただ平静を装って、「何でもございません」とお答えするのが精一杯でした。

 

「近々お会いしてはどうかしら?こんなお話滅多にないもの。そうねぇ…次の大安は何日でしたっけ?」

 

そう嬉しそうにしている松江叔母様のお声は、私の耳に全ては届きませんでした。あのひどく傷む動機に、体全体までもが震えだしてしまいそうです。どうしてそれをとどめることができましょう。写真の中の精悍なお顔立ちと、あの方がおっしゃっていた相手が実は私だったのだと思うと、私は再び顔の熱くなるのを覚えるしかなかったのです。

 

 

 

    

 

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