その日も同じように、私は女学院からの帰り道を歩いておりました。この頃は日なたにいればポカポカと暖かく、俄かに春の気配さえ感じられます。しかし季節は未だ如月の半ば、道行は今暫く手放させそうにはありません。今この時の春めいた日差し以外には、変わったことなど何一つないようにすら感じられます。それというのも先日お裁縫の時間にみしん≠拝見してからというもの、それ以上に目新しいものに出会うことがなかったためでした。

 

毎日同じ、平坦な日々…私はどこか虚いだ気持ちを抱えながら、ぼんやりと歩いておりました。女の一生が殿方に嫁ぎ、家事・子育てに勤しむもので、それ以上でもそれ以下でもないことはよく存じてはいたのです。様々なお稽古も、どの家に嫁いでも恥ずかしくないよう身につけるものに他なりません。日常に潤いを求めるものとは、また違う次元のものなのです。父やヨネが私に言って聞かせたように、私はちゃんとそれをわかっておりました。…だからそれでも良かったのです。規律正しく平穏に過ごすことが何よりならそれで構いませんから、せめてこの胸高鳴ること一つ、望ませては頂けませんでしょうか?

 

 

 

 

「きゃっ…」

 

そんな心持ちで歩いていた私は、曲がり角に差し掛かって出合い頭にどなたかにぶつかってしまいました。反動でどさりと音を立てて、手にしていた書物が地に落ちます。私はその落ちた書物に、あまりにもぼんやりとしていた自分を顧みて、思わず赤面致しました。上の空で公道を歩くなど言語道断、いつどこでどなたの目に触れているかも分からないのに…とヨネの言葉がよぎります。

 

「あ…も、申し訳…」

 

「いえ…」

 

慌てて屈んだ私よりも早く、すっと相手の方の手が延びてきて落ちた本を拾いあげました。

 

「私がぼんやりとしていたためです。大変失礼致しました。」

 

私はそう言われて差し出された本よりも、思わずその方のお顔をじっと凝視してしまいました。すらりとした長身に、流れるように分けた短い黒髪。切れ長の瞳が細見のお顔にとてもよく似合いで、鼻筋はすっと通り、見とれるほどに整ったお顔立ちにございます。お召しになっているのは外国の着物で、普段着というよりも何かの正装のようにも思われました。

 

 

 

 

 

「お怪我はありませんか?」

 

「あ、はい。大丈夫です…。」

 

私は消え入るような声で呟きながら、やっとのことで本を受け取ります。そしてそれを抱えるようにしながらもじもじと、顔を上げることすらかないませんでした。ただでさえとても素敵な殿方で、しかもそんな方にぶつかってしまったのかと思うと、ひたすらに気恥ずかしい気持ちでいっぱいだったのです。けれどその方はそんな私を疎むことなく、低く心地よく響く声で「女学校からのお帰りですか」とお尋ねになりました。

 

「は、はい…」

 

「ではこれも何かの縁でしょうから、貴女の家までお送りしましょう。」

 

「い…いいえ!いえ…結構でございます…!」

 

私は驚きと恥ずかしさのあまり、大変に不躾な言葉を返してしまいました。激しく首を横に振ったので、三編みがまるで犬の尾のように揺れ動きます。継母やヨネが見聞きでもしたなら、何と言って私に苦言を呈することでしょう。しかしそれでもその方は、微笑みながらおっしゃるのです。

 

「…ではそこの角まで。それで差し支えありませんか?」

 

私は顔を上げて、その方の指す方向を見遣りました。とあるお屋敷の長い垣根を沿っていく道、それは私の家へと続く道に間違いありませんでした。しかしいつもと違い、その道がひどく長く見えたのです。見知らぬ男性に道すがら同行を求められるという、ある種の試練ともいえるのでしょう。けれど私はあえて「はい」と承諾致しました。先程あれほど失礼な返答をしておきながら、今ここでこのお誘いを断っては、藤宮の娘として大変に無礼だと考えたのです。

 

「良かった。ではそこまでお供しましょう。」

 

その方はニコリと微笑むと、手で私を促してゆっくりと歩き出しました。私は尚も顔を上げられず、ぎこちなく歩を進めます。

 

 

 

 

「女学校ではどのようなお勉強をなさるのですか?」

 

その方は私の緊張を緩和させるようにと、相変わらず落ち着いた声で尋ねます。

 

「唄やお裁縫や…文学などを。日によって学ぶものは異なります。」

 

「それは楽しそうですね。一組には何人ほど?」

 

「じゅ…十五名前後ですわ。」

 

私は質問に答えながらも、内心早鐘のように動悸がしておりました。沿うように長い垣根のどこかから、誰かに見られてしまったらと思うと気が気ではありません。勿論横を歩くこの方は、私には勿体ないくらい素敵な男性ではございます。しかしそうであればあるほど、私の口は紡がれ、足取りは覚束なくなり、ますます約束の角が遠くに感じられるのでした。

 

 

「…女性にとって…」

 

そんな私との暫しの沈黙を置いてから、ややあってその方は静かに口火を切りました。

 

「女性にとって、結婚とはいかなるものでございましょう?」

 

「…え?」

 

あまりに唐突な問いに、私はつい小首を傾げました。一体今この方が何をおっしゃったのか、一度考え直さなければならないほどだったのです。しかしその方は流れるように目線を私に合わせて、その答えを促します。私はそれを受けて一度呼吸を落ち着けると、初めてその方をきちんと見て申し上げました。

 

「結婚は…女の幸せと申します。」

 

そうでなくてはならないと、ヨネはいつも口にしたものです。実母(はは)にもきっと、そう言い聞かせていたことなのでしょう。

 

「ではそれが親同士の決めたもので、互いに顔も名前も知らないものであったなら…?」

 

その方は立ち止まって、今度はしかと私に向き直りました。私も足を止めてその方を見上げたまま、二の句を心中で探しました。少しだけ悲哀を滲ませたその綺麗な一重の瞳に、私はこの方の真意を汲んだのです。そしてご自身のことよりも、同じ境遇で嫁いでくる相手の方を何よりも想っていらっしゃるのだと。私は何と言って言葉を返すべきか、ひどく迷いました。もし私の立場なら、何の胸の高鳴りもなく結婚することに、少なからず嘆くことでしょう。けれどこんなにも深く配慮してくださる方ならば、その結婚もまた幸せであると思ったのです。この方が今望んでいるのは、どのような答えなのか、私にはどうしても分かりませんでした。その悲哀を拭って差し上げたくとも、気休めがより一層傷を深くすることもございます。私はそれを思うと、泣いてしまいたい気持ちに駆られました。

 

 

 

 

「坊ちゃま!」

 

するとその時、どこからか小男が一人、こちらに駆けて参りました。痩せて頭の禿げ上がった背の低い男でしたが、その身なりや振る舞いにはどこか上品なものがありました。

 

「こちらにおいででしたか、坊ちゃま。急がねば省に遅れまするぞ。」

 

「あぁ、分かっているよ。だがいい加減、その呼び名は止してくれないか?」

 

その方は悲哀を一瞬で消し去って、小男に苦笑いを向けました。少し恥ずかしそうに、けれど小男にそう言いつけるのが若干気後れするような、そんな口調でした。

 

「幾つにおなりでも、坊ちゃまは坊ちゃまにございまする。」

 

そう深々と頭を下げた小男に、その方は敵わないな≠ニおっしゃいました。きっとこの方々は、私とヨネのようなご関係なのでしょう。私はそれを思うと、先程まで泣き出しそうだったことも忘れて、小さくくすりと笑ってしまいました。

 

 

「やっと笑ってくださいましたね。」

 

その方は私の表情を見遣って、とても嬉しそうにおっしゃいました。私は自分の顔が耳まで赤くなるほど、熱くなるのを感じました。

 

「坊ちゃま、この方は…?」

 

「道すがらお会いした方だよ。先程は唐突に大変失礼いたしました。」

 

「い、いいえ…!そんな…」

 

私はまた無作法に大きく手を振って、直後にその事をひどく後悔しました。いつもなら場を繕うことなどたやすくできるものを、なぜか失態ばかりを繰り返してしまいます。

 

「ご縁がありましたら、また。」

 

そう囁きかけるようにおっしゃると、その方は急かす小男を従えて車に乗り込んで行きました。私はその背中を見送りながら、しばらくその場に立ち尽くして、顔の火照りが冷めるのを待たなければなりませんでした。

 

 

 

 

    

 

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