「…ックシュ!」
あたしは実に珍しい起き方をした。寝返って自分の髪に鼻をくすぐられてくしゃみをして目が覚めた。その反動で少し目を回したけれど、傍らからの声にすぐに意識をちゃんと保つことが出来た。
「あはは、大丈夫ですか?」
微笑みながらアルフが問う。いつだって物腰の柔らかい彼の態度が、今は一番安心する。
「うん、平気。」
あたしも自然と笑みがこぼれる。
「あたし…どのくらい眠ってた?」
「それほどではないです。むしろもう少し眠っていてもいいくらいですよ。体調はどうですか?」
「ずっといいわ。心配してくれてありがとう。」
そう言ってあたしは起き上がった。本当に随分体は楽になった。
「カルラやサイフェルトが来たのは夢じゃない…よね?」
あたしはふと思い出して尋ねた。ハイゼが変化してしまったあの夜から、まるで脳が封鎖されていたかのように記憶が曖昧だった。
「ええ、実際に来ていますよ。」
「どうしてここまで来たのか話してくれた?」
「まだです。ミツキさんが起きてから話すって言ってましたから。呼びましょうか?」
「うん…」
しかしアルフが呼びに行く必要はなかった。光姫のくしゃみを聞きつけて、すごい勢いでサイフェルトが入ってきた。
「ヒメ!良かった…目が覚めたか!」
駆け寄って光姫の手を取る。その背後からカルラやルベンズのいつものメンバーが入ってきていた。
「…それじゃあ早速話してもらおうか。」
光姫の回復した様子を伺ってテオレルが切り出した。途端にサイフェルトの表情が変わる。底抜けに明るいだけの雰囲気の中には確かに盗賊の首領としての顔があった。
「ミツキ…俺たちはある事を教えに来たんだ。」
サイフェルトの口調から緊張感が伝わってくる。
「ある事?」
「その話の前に…この本のことは知ってた?」
カルラがベッドサイドから一冊の本を取り上げた。ハイゼの持ち物…ハイゼが西の大陸の商人から貰ったあの本。竜の挿絵が頭をよぎる。
「…知ってたわ。ちょっとだけ見せてもらったこともある。でも読めなかったの…この世界の文字で書かれてたから…」
「…だとすると、あの人は全部知ってて隠してたってことになるわね…。」
カルラは悲痛な面持ちで呟いた。
「どういう事だ?御頭とその本と何の関係がある?」
バーディンが相変わらず冷静に、しかし凄みのある声で問う。
「ミツキもあんたたちもよく聞いて。この本はね、西の大陸の伝説を書いたものなの。内容は…簡単に言えば、ある男の願いを叶えるために竜になった女の話。」
あたしの心臓がドクンと冷たく鳴った。指先から血の気が引いていくのが分かる。足先は微かに痺れてくる。
「西の大陸で何百年も前から口伝されてきた説話が書かれてるの。長い間文字にされてこなかったから曖昧な部分もあるけど、たぶん…たぶんね、この話の中の男は別世界からの異邦人。ミツキと同じ…ね。」
光姫は目を見開いたまま動けなかった。まさか自分と同じ立場の人が遠い過去とはいえいたなんて…。いや、それ以上にハイゼはこの事を知ってたの?西海岸の町で…あの部屋でキスしてくれたあの時からずっと秘めていたというの?
「そんな話聞いたこともなかった…。有名な話なのか?」
「ううん、あたしたちも今回のことがなければ知らなかった。西の大陸の限られた地域でしか語られてなかったみたいだし、言語が少し違うみたいだから尚のこと広まらなかったんだよ。この本でさえ所々不十分だしね。」
カルラはバーディンの問いに的確に答えた。
「それで…話の終わりは?結末はどうなってるんです?」
アルフが躊躇いながら切り出した。彼は普段ならあまり前に出たがらない性格なのだが、今回のことには果敢に挑んでいた。もちろん光姫のこともあったし、それ以上にハイゼのことを気にかけていた。かつて貧富の格差が激しい大きなバザールで、下の下の生活を強いられていたアルフにとって、ニロの世話役としてでも外に連れ出してくれたハイゼを慕っていた。擬似家族の絆とも尊敬とも違う思いがあった。
「カルラ…さん?」
アルフは言葉を止めたカルラを促した。
「結末…そ、それは…」
カルラは戸惑いに唇を噛んだ。
「…ダメだったんだ。」
言葉に詰まったカルラの後をサイフェルトが引き継いだ。体勢を変えず、少し冷たい光姫の手を取ったまま、覚悟の溜め息を交えて。
「男は最後に竜の前に立ったんだ。上手くいけば竜の何らかの力で元の場所に帰れるはずだった。…でもダメだった。竜は男を噛み殺して北の空に消えた…それが結末だ。」
光姫の動悸が激しくなる。心臓が痛い…。最悪の場合あたしは死ぬ…。だけどそんなことよりハイゼは…ハイゼはあたしを帰すために自ら望んで竜になったというの?…嫌だ、そんなの…。確かに元の世界には帰りたかったけど、こんなことになるぐらいなら…
「つまり…次はそんな結末にしない何かを見つけなくちゃならないって事か…。もう第一段階は…竜は現れてしまったんだから…。」
テオレルが爪を噛むようにして呟く。仮にそうするしか道がないとして、その先にたった一粒でも光は残されているのだろうか…?
「とにかくそういう事ね。でもあたしたちだってこんな中途半端な話だけをしに来たんじゃないのよ。」
カルラが本を近くにいたアルフに手渡しながらルベンズに一歩近づく。
「光姫がこっちへ帰ってからの日数と気候を計算して、上手くいけばちょうど南東に近い辺りであんたらと合流できるんじゃないかって話してたの。もしそこで会えれば…」
「リゼットのババァの所に連れて行ける。」
サイフェルトが俯き加減の光姫を見つめ返したまま強く言い切った。
「サイフェルト…あなたリゼットさんの居場所を知ってるの?」
光姫は顔を上げた。久しぶりにその目に光が宿っていた、とても小さな弱い光だったけれど。
「あぁ…知ってるが、ヒメの方こそあのババァの事知ってたのか?」
「必ず行くようにって言われてたの。物知りなおばあさんで南東の岩山に住んでるとしか聞かなかったんだけど…。」
「それなら良かった。」
サイフェルトは両手を添えて光姫の手を取り、その指先を自らの口元に持っていった。尤もカルラやアルフ、料理長の冷たい目線に直前で止めざるを得なかったが。
「とにかくリゼットのババァんとこに行こう。今日はもう遅いけど、明日の朝早く出れば夕方には着ける。な、そうしよう。」
「うん。」
サイフェルトに促されて光姫は頷いた。やっと持ち前の柔らかな笑みを取り戻していた。