その日、やっぱり思っていた通りバザールには着かなかった。あたしは設置されたテントの中のベッドに寝転んでいた。あたしの心は未だにあの悲壮感に支配されている。体力よりも精神力を消耗した、そんな気持ち。それが解消されなくてもいいから、せめて原因が知りたい。あたしの回りに纏わりつくこの胸騒ぎは何?

 

 ふとボソボソと声が聞こえるのに気がついた。スペースの向こう、ハイゼの声みたいだ。誰かが来た気配はなかったけど…。

「…ハイゼ?」

あたしはそっとついたてから顔を出して、タイミングを見計らってから彼の名を呼んだ。ハイゼは机に向かったまま少しびっくりしたように体を動かしてから振り向いた。

「ミツキ…」

顔は微笑んでいる、でも瞳は違う。優しい中の悲しさ。それがまたあたしの胸を締め付ける。あなたのその表情の原因がどうかあたしではありませんように…。

「おいで。」

ハイゼは少し両手を広げるようにしてあたしを呼んだ。あたしは躊躇いながらも歩み寄る。…ハイゼの首飾り、あんな色してたっけ?そう考えてしまうほど雰囲気がいつもと異なっている。

「どうしたの?」

近づくあたしをハイゼは立ち上がって迎える。一瞬そのオレンジの瞳が悲しく淀んだかと感じたけれど、それはすぐに見えなくなった。ハイゼがあたしを抱きしめたから。

「…ハイゼ?」

少しだけ悲壮感が薄れる。だけど悲しみは晴れない。何故?

「ミツキ…」

体を抱く力が強まる。

「…お前は俺が帰してやるからな…。」

「どうしたの、ハイゼ?いきなりそんなこと言うなんて…。」

確かにそう言ってくれたことがあったけど、何故今それを繰り返すの?嫌だ…なんだか胸騒ぎが段々とひどくなってくる。

「ハイゼ?…もしかして熱があるんじゃない?体が暖かいよ…」

より強くなるハイゼの力に少し苦しくなりながらも会話を続けた。しかしハイゼは言葉を返さない。ただ強く抱きしめるだけ。

「どうしたの?なんだかおかしいよ…。本当に具合が悪いんじゃ…熱っ…」

ハイゼの体温はどんどん上昇していく。もう暖かいなんてものじゃない、熱い。触れ合う部分がジリジリと火傷していくみたいに痛む。

「ハイゼ…痛い…!!」

あたしは呻くような声で呟いた。ハイゼはそれに応じたのか、腕を緩めてあたしを放した。あたしは数歩よろめきながら下がり、改めて彼を見た。…一体何が起こっているの?!

「う…ぐっ……」

ハイゼが苦しそうに呻く。体を押さえて必死に何かを押し止めようとしている。それでもハイゼの体がどんどん変化していくのが分かる。体のあちこちが硬化していく…関節はいびつに盛り上がり、人間のものとは明らかに違う骨の形がはっきりとでている。ハイゼのベージュの服は皮膚に同化していくように茶色の鱗に変わり始め、口元には鋭い牙、指先には黒っぽい大きな爪が生えてきていた。

「ハ、ハイゼ…!」

「だ…駄目だ、ミツキ…」

駆け寄るあたしをしわがれ声で拒否した。今や体全体が大きくなり始め、バキバキッという嫌な音と共に背中から翼が現れた。長くなった尾がテントの中のものを破壊し、大きな音が辺りに響く。あたしの目の前には竜がいた。少し前までは人間だった竜…、少し前まではハイゼだった…竜が。

「そんなどうして…うっ…」

熱風が吹き付ける。燃えるように熱く強い風。同時にあたしの耳に劈くような咆哮が響く。あの地下空間と同じ声…でも今度のは空耳でもなんでもない。今目の前にいるのだから。

 

 竜は大きくなった体でテントを破り、翼をはためかせてその残骸を辺りに撒き散らした。気がつくと異変を察知したルベンズが集まってきていた。誰にもどうにも出来ないけれど…。

「何で…ハイゼ…」

あたしは小さく呟いた。熱風で肌は赤く腫れていたし、竜がテントを壊したせいで随分と体も服も汚れていたけれど、そんなことどうでも良かった。よろめきながらも竜に近づく。竜はそんな光姫を見やった。火のように赤い…しかしどこかオレンジを含んだ朱色の瞳。物悲しい気持ちが湧き上がってくる…あの本と一緒だ。

「危ない!!」

とっさにコラーナが飛び出し、光姫を抱え込むように地面に寝そべった。そのすぐ上を竜の爪が掠める。

 

グガアアアアアアアア…

 

竜が咆哮する。苦しむように体を動かして更に咆哮を繰り返す。

「尾が…!」

光姫は自分を庇ってくれているコラーナに呼びかけた。しかしそれも遅く、苦しむ竜の反動のついた尾が物凄い勢いで光姫とコラーナに直撃した。

「うああぁ!!」

「きゃああああ…!!」

あたしたちは随分飛ばされてしまった。体の節々が痛い…それでも光姫はすぐに立ち上がった。竜は翼を上下に動かし、辺りに強い風を巻き起こして空高く飛ぼうとしている。

「…待って…」

光姫は体を引きずるようにして竜の元へ歩き出した。息はひどく乱れ、普通なら倒れてしまいたいくらい辛い。でもそれよりも辛いことが現実として存在しているの…倒れるわけにはいかない。

「お嬢、駄目だ!」

料理長が駆け寄ってあたしを止める。ちょっと腕を掴まれただけで動けなくなる。もう料理長を振り払う力なんかない。

「ハイゼ…待って…どして…」

息も絶え絶えに手を伸ばした。目の前が霞む。自分の指先さえよく見えない。茶色の竜はそんなあたしを尻目に地面から飛び立ち、いきなり上空に舞い上がるとそのまま速度を上げて夜空に見えなくなってしまった。巻き起こされた風が辺りに吹き荒び、料理長が支えていてくれなければ、あたしはきっと吹き飛ばされていたと思う。

「一体どうなってるんだ…?」

料理長が独り言のように呟き、放心してあたしの腕を放した。あたしは途端にその場に座り込んでしまった。そしてただ夜空を見上げていた。こんなの嘘だ…きっと夢だ…。あたしはずっと言い聞かせていた。異世界も砂漠も魔方陣も、この世界の何もかもを受け入れてきたあたしにとって、これが初めての拒絶だった。

 

 

   

 小説TOP(FG)へ