「今朝はどこに行ってたんですか?」
朝食の席でテオレルがやってきて話しかけた。
「知ってたの?」
「ええ、テントから出て行く音が聞こえましたから。御頭が一緒だったので出て行きはしませんでしたけどね。」
そうだ…テオさんも元は盗賊だったんだよね。やっぱりそういうことに敏感なんだ。
「オクルが出て行っちゃったから追いかけてたの。でもほら、ちゃんと帰ってきたわ。」
あたしはテーブルの上で餌を頬張るオクルを撫でた。あの地下空間でのことは…言わなかった。思い出すのが嫌だったし、あたしにしかあの唸り声が聞こえていなかったのなら事態を大きくすることもないと思っていたから。
「この辺りには昔何かの宗教があったとか、聞いたことない?」
それでもあたしは核心のギリギリを突く質問をした。怖かったけど気になるし、何か意味があるんじゃないかって考えていた。
「宗教ですか?…さぁ、聞いたことないですね。でもこの辺りの厳しい環境を考えれば、何かがあったかもしれないとは言えます。」
「そっか…そうだね。」
「何かあったんですか?」
テオレルは光姫の横の席に腰掛けた。優しい表情でこちらを見て、話を聞く体勢を作ってくれている。
「…ううん、大したことじゃないの。ただオクルを追いかけてた時に壁に文字が刻まれているのを見たから気になっただけ。ありがとう。」
「いいえ、それじゃ私からも一つ質問してもいいですか?」
「?何?」
テオさんがあたしに何か尋ねるだなんて珍しい。テオさんにはいつもこの世界の常識を教えてもらったりしていたし、あたしが別の世界から来たことにもあまり触れてこなかったから。
「最近御頭に何かあったとか、ご存じないですか?」
「ハイゼに?」
「ええ、それほど火急に心配するほどではないと思うのですが、何となく思いつめてるというか元気がないというか、いつもの御頭らしくないと思って…。」
あたしはテオさんの言葉にハイゼの方を見た。ハイゼは少し離れたところで地図を見ながらバーディンさんたちと相談をしていて、時折笑顔も見せている。あたしは記憶を辿った。そういえばどこかハイゼのテンションが低いと感じていた。いつからだっけ…。
「うーん…確かに寝覚めが悪かったりしてるみたいだけど、何故かまでは分からないわ。やっぱりテオさんから見ても最近おかしい?」
「まぁ、この辺りを通る時は誰だって気が滅入るものなんですけどね。それだと思えば何も不自然ではないと思うんですが…私もちょっと気になってただけです。ありがとう、ミツキさん。」
「いいえ。」
「御頭の元気がないと思うなら、ミツキさんが活力源になってあげてくださいね。特に寝覚めが悪いようなら。」
テオさんは席を立ちながらそう耳元で囁いた。少しからかうような小さな笑みを交えながら。
「もう、テオさんまで…。」
あたしは少し顔を赤らめて困ったような表情で笑って返した。テオさんはニコッと微笑むとハイゼたちの相談の輪に戻っていった。きっと今日はどの辺りまで進むのか話し合ってるんだ。このバザールの廃れている区間を過ぎればもう少し楽に渡航できるようになりそうだし、もっと頑張らなきゃね。あたしは気合を入れるようにお皿に残っていた朝ごはんを食べてしまうと、料理長の炊事場を少し手伝い、出発の準備に取り掛かった。
“言うべきだったこと”、“言った方が良かったこと”、“言わなくても良かったこと”。自分に心配事や悩み事があるときに、この3つを会話の中で使い分けるのは難しい。
あたしはこの3つをちゃんと正しく使えていただろうか。あの地下空間、唸り声、この時テオさんに話していれば何かが変わった…とは言いきれない。でも少なくとも後悔しなくて済んだ。
もし何かコンプレックスが直るのなら、この自分の浅はかさが無くなって欲しい。ここは全てに意味がある世界、もっと気を配っていなければならなかったのに、どうして元の世界で過ごすような考え方しかできていなかったの?
その日の渡航は随分楽だった。それはもちろん一番の難所である砂漠の真ん中を通り過ぎたこともあったけれど、何よりいつもよりも進むペースが遅かった。次のバザールへの到着時間を調整しているとも考えられたけど、今までそんな風にしていたことはなかったし、バザールには早ければ早く着くに越したことはない。それに猶予が残されているとはいえ今は予定よりも少し遅れているはずなのに。
休憩地点でアルフに何故かを尋ねたけれど、彼も結局は分からずじまいだった。急げば今日の夜にも次のバザールに到着するはずなんですけどね、と口にして、まるで今日はバザールには着きたくないみたいだ、なにか考えがあるんじゃないですか、と言葉を付け加えた。
少しずついつもと違うことがそうさせるのか、あたしの心にはどんどんと不安が蓄積されていった。あぁ…やだな…この気持ち、物悲しい悲壮感。何かを匂わす胸騒ぎ。
「ハイゼ…」
ニロの後ろから何の気なしに呼んでみる。
「ん?」
ハイゼは振り向かない。けれど温度のある一言。
「…ごめん、なんでもない。」
そう言ってあたしはハイゼの背中に顔を埋めた。いっそ泣いてしまいたい気持ちが心をいっぱいにしていく。アリアさんの代役をしていた時にも、サイフェルトの孤城に行っていた時にも、こんな気持ちにはならなかった。なんともいえない不安定な気持ち。あの地下空間での唸り声や、いつも見ているあの夢の影響が今出ているのかな。
そんな風に考えていて、いつの間にか滲んできていた涙をオクルが舐める。あたしが手を添えると嬉しそうに頬擦りまでしてくれる。ハイゼの体温、オクルの毛並み、ルベンズの皆の暖かさ。あたしは今何一つとして支えを失うわけにはいかなかった。