あたしはそう考えながらふと手をついた壁面の凹凸に気が付いた。この空間の石積み、ただの石で出来ているんじゃないみたい。自然の凹凸とは違う、これは…文字だ。あたしの読めないこの世界の文字。それもハイゼの読んでいた本に書かれていたのとは少し違う…かな?大体こういう空間に刻まれる文字といったら古代のものであることがあたしの世界では常だけど、今目にしているこの文字がどうなのかは分からない。古代文字の概念があるのかすらも知らないのに。
光姫は壁の文字を辿っていった。縦横の高さが50cmくらいの正方形に近い積み石の、下から3段目にだけ文字が刻まれている。よく見れば空間を一周するようにどの壁面にも文字がある。天井に近い辺りには燭台のような突起があり、以前は密閉された空間であったことが伺える。
「ハイゼ、何かあった?」
光姫はスロープから真正面に位置する辺りに立っているハイゼに声をかけた。一般論から言えば御神体とか宗教がらみの飾り棚があってもおかしくない場所。つまりこの空間の存在理由。
「いや…確かに何かがあったような形跡はあるけど…」
そう口にする一方で、ハイゼの目は確実に何かを捉えていた。だけどあたしに背を向けていたハイゼのそれにどうやって気付けただろうか。
「それじゃあ、やっぱりここも棄てられた空間なのね。昔は祭壇だったみたいだけど、大事なものを持ち出してどこかに移動しちゃったのかな?」
あたしはそう呟いて目の前の壁に手を伸ばした。そして指の先が壁の凹凸に触れたのと同時に、あたしの耳に劈くような唸り声が響いた。体の心まで震えるような大きな、怖い唸り声。何かの映画で見た、怪物の声に似ている。
「きゃあああああっ!!!」
あたしは叫んでとっさに頭を抑え屈みこんだ。今まさにすぐ傍にそれがいる、あたしはそう直感していた。でも実際は声がしただけ。直感に反して何の気配も感じない。オクルも驚いているけど、それは得体の知れない何かにではなく、あたしの叫び声に驚いているようだった。聞こえなかったの?まさかそんなはずはない。オクルには聞こえないものだったのだろうか?
「ハ、ハイゼ!今の何?!!」
「え…いや、なんでもない。」
「そうじゃなくて何かの唸り声が聞こえなかった?!」
「唸り声?」
光姫は涙目で随分怯えた表情を浮かべていた。ハイゼは不思議そうな顔をしていたけど、光姫の様子に唸り声が聞こえたことを疑ってはいなかった。
「俺には聞こえなかったけど。」
「そんな…でも…」
光姫は屈みこんだ体勢のまま辺りを見渡した。この空間に入り込んだ時よりも日が昇ってきて不気味な暗さは影を潜めているのに、明るくなり始めた今の方がとても怖く感じる。だってあの唸り声は本物だったんだもの!空耳でこんなに体が震えるわけがない。
「早くここ出よう、ね?何だかすごく怖い…!」
あたしはよろめきながら何とか立ち上がってハイゼの元に駆け寄った。地下の空間はとても静か。上層で風の抜ける音が微かにするだけ。だけどその静寂が余計恐怖を増長する。またいつあの声が聞こえるかもしれない。嫌だ…早くテントに戻りたい…!
「分かった、行こう。この上に登るしかないな。」
ハイゼはちょうど頭の上に開けている1階の床の抜けた部分を見上げた。上手い具合に崩れた床材が踏み台の役目をする。あの滑り落ちたスロープを登るよりずっと楽に外に出られるはずだ。なによりオクルが先行して登っていった。ここしかない。
「先に行きな、ミツキ。気をつけろよ。…大丈夫か?」
ハイゼはひどく震えて涙を溜める光姫を気遣った。何を聞いたか知らないが尋常じゃない。
「ごめん…ハイゼ、あたし…」
どうしよう、体が強張って動けない。足がすくんでしまっている。ただ声を聞いただけ、実際にはいないはず…どんなにそう思い込んでも緩和されない。怖い…だけど心はそれだけじゃない。悲しい…切ない…なによりも嫌だ…!必死に何かを拒絶してる。
「大丈夫だ、ミツキ。落ち着け。」
ハイゼは光姫をぎゅっと抱きしめた。震えが少しでも収まるように。
「俺も一緒に登る。ゆっくりでいいから、行こう。」
「…う、うん。」
ハイゼのおかげで何とか体が動くようになった。あたしは震えるような溜め息をついて、やっと一歩を踏み出せた。その横にハイゼがついていてくれる。それでも何回か心を落ち着かせるために立ち止まらなければならなかった けれど、ようやくの思いで天井の穴から這い出ることが出来た。外は少しずつ気温を上げ、砂がジリジリと焼け付くような眩しい色を発していたが、今のあたしには天国のようにも思えた。まだ鼓動が激しい。でも心は随分平静を取り戻してきている。あたしは走った後のように息を切らせていた。あんな怖い思い、初めてだ…。
「立てるか?」
ハイゼがすぐ傍で声をかけた。
「うん、平気…。ごめんね、何か取り乱しちゃって…。」
あたしは差し出されたハイゼの手に掴まって立ち上がった。じっとりと汗をかいてる。それでも地下にいた時よりもずっといい。
「お前が大丈夫ならそれでいい。一体何を聞いたんだ?」
「よく分からないけど…、何か怪物の唸り声みたいだったわ。すごく近くで聞こえて…でもやっぱり空耳だったのかなぁ…」
あたしは辺りを見回しながら最後の言葉を付け加えた。外には何もいない、何かいた形跡もない。風が段々と強くなっているだけ。
「…とにかく戻ろう。他のやつらも起き出す頃だし。」
「うん…。」
ハイゼはそういってあたしを促しながら歩き出した。先に登っていたオクルが駆け寄ってきて、あたしはそれを抱き上げるとハイゼの後についていった。一度だけチラッと横目で振り返ったけれど、風が砂を運び始めたせいで少し霞んで見えただけで、あとは何も変わらなかった。