その夜は久しぶりにあの夢を見なかった。疲れて熟睡していたせいか夢を見ていた記憶どころか、ほんの数分しか寝ていなかったような気さえする。でもそれはあながち間違いでもなかったみたい。あたしが目覚めたのはまだ朝靄のかかる早朝だった。眠い…けど二度寝するって気にはならない。
「…オクル?」
あたしはベッドの中のどこにもいない様子に気が付いて名を呼んだ。名といっても固有の名前を付けたわけじゃない。人懐っこい猫に向かって“猫”と呼びかけるようなもの。
「オクル。」
あたしはもう一度小声で呼んだ。キィッという小さな鳴き声がスペースの外から返る。あたしは起き上がってマントを羽織ると声のした方に出て行った。オクルはテントの出入り口にきちんと座っていたけれど、あたしの姿を見ると外に出て行ってしまった。
「あ、どこ行くの?!」
「お前こそどこ行くつもりだ?」
「わぁ!!!!!」
オクルについて出て行こうとしたあたしをハイゼが諌めた。あたしは心臓が飛び出るくらいひどく驚いてしまった。
「ハ、ハイゼ起きてたの?」
「いや、起こされた。オクルが俺んところで走り回ってたからな。」
「あは、そうだったの?」
そうやって中々テントから光姫が出てこないのに痺れを切らしたのか、オクルは再びテントに戻ってきた。
「オクル、どうかしたの?」
オクルは尻尾を左右に振った。
「一緒に来て欲しいの?」
その言葉に立ち上がって2回ほどその場で回った。どうやら光姫の言う通りらしい。
「ハイゼ、ちょっと外に出てみるね。そんなには遠くに行かないだろうし…。」
「俺も行くよ。」
ハイゼは起き上がって薄手の寝巻きにマントを羽織った。
「いいの?」
「あぁ、二度寝って気分じゃないし。」
そうしてあたしとハイゼはオクルを追って外に出た。ルベンズのテントは各々風を遮るように廃墟の片隅に設置されている。オクルは冷えた朝の空気の中で颯爽と走って行き、時々振り返ってはあたしたちがついて来ているのを確認していた。東の空が段々と明るくなってはいるけれど、まだ気温が上がるには至らない。冷え切った砂と風が気持ちいい。
「朝はこんなに涼しいのに昼間があんなに暑くなるなんて不思議ね。」
「そうか、いつだったかも言ってたな。体は慣れたか?」
「うん、大分ね。まだ昼間の暑さには適わないけど…。」
「なら良かった。」
ハイゼは少年のように無邪気に笑った。あまりに不用意なハイゼの笑顔にあたしの胸は高鳴った。“良かった”のはむしろあたしの方。ハイゼの笑顔、なんだかとても久しぶり。ここ最近はきっと疲れてたんだね。
「あれ…オクル?」
不意にあたしたちはオクルを見失ってしまった。迷路のように配された廃れたバザールの建物の陰に潜んでしまったのだろうか?
「…ミツキ、あそこだ。」
ハイゼが見つけてあたしの目線をその方向に促す。オクルは低い建物(かつての2階部分は風化してしまっている)の前に座って“早く”という顔をしていた。しかしあたしたちが駆け寄るとまた姿が見えなくなる。
「ど、どうして?」
「よく見ろ、地下だ。だいぶ砂に覆われてるけどな。」
確かに近寄ると見えてくる。その建物の入り口、砂にほとんど塞がれてしまっているけれど空洞がある。オクルが入っていったことで砂が崩れ、今はそれがちゃんと見えていた。随分急で長いスロープ。風が微かに吹き上げてくる。
「下はどうなってるんだろう…」
「さぁな、俺も初めて見る。」
あたしたちの声がスロープに響く。既に中に入っているオクルの鳴き声も響いてくる。あたしとハイゼは互いに目を見合わせた。
「とにかく行ってみるか…。お前は俺の後ろから下りな。」
「うん。」
数歩踏み出したハイゼの後にあたしが続く。天井との高さがほとんどないため、しゃがみこんで少しずつ降りていくしかない。それに石造りのスロープは掴み所がなくて滑りやすく、足元がまるで覚束ない。
「足滑らすなよ。」
「うん…わっ!!!」
言ってるそばからあたしはやってしまった。止まろうにも手摺も何もない。あたしはハイゼの背に負ぶさるようにしがみ付くしかなかった。
「ごめ…ハイゼ!」
「なっ…お前な…!!」
ハイゼは背であたしをしっかりと受け止めたまま、ブーツの踵で必死にブレーキをかけた。そのおかげで滑る速度は落ちたけど、それでも止まれなかった。あたしも足を踏ん張ってローファーの底をすり減らしたけれど、全くの無意味。暫くしてあたしたちは下層の安全を確認する間もなくスロープの下に滑り出てしまった。
「…ふぅ、ブーツも換え時だな。」
ハイゼは自分のブーツの裏を見ながら呟いた。確かに見た目よりも長かった下りのスロープ、2人分の体重を制止していたのだからきっと随分減ったよね。
「ごめんね、ハイゼ…。」
「仕方ない。時間短縮だと思えばいいさ。」
そう言ってハイゼは自分が立ち上がるついでに、そのまま背中にしがみ付いていた光姫も一緒に立ち上がらせた。濃い茶色の光姫のマントは石に摺れて少し白味がかっている。叩いて少し埃を落としたけど、後は洗わないとダメみたいだ。
「…ところでここ何なの?」
「砂嵐のための地下壕…かと思ったけど少し違うな。それにしちゃ広過ぎる。」
ハイゼは辺りを見渡し、最後に見上げた。1階部分の床が一部抜け落ちていて、そこから空が見える。朝の光が差し込んでいて、地下といえど今いる空間の様子はよく伺えた。見た感じこの空間は長方形をしていて、四方はスロープと同じような石造りになっている。天井の抜けてる部分から砂が入り込むのか、足元は砂にまみれているけれどおそらくは床も石造り。上層の ような風化の雰囲気はなく、それとはまた違った古さがある。
「あ、オクル!」
あたしは部屋の隅にいたオクルを見つけて声をかけた。オクルは嬉しそうに走り寄る。
「お前、ここにあたしたちを連れてきたかったの?」
抱き上げて問うと、オクルは満足そうに一声鳴いて光姫の肩に落ち着いた。この世界では人間でなくてもその行動に意味が求められる…のだろうか?だとしたらオクルがここに来たがった理由って一体何なんだろう。