光姫の左手に握り締められた首飾りからは、細いけれども未だしっかりと竜の靄と繋がる糸が立ち昇っていた。かつては澄んだ紫色をしていた首飾りの石も、今はどこか赤味を増してくすんでいる。上空の靄からも咆哮が途切れることがない。光姫は数歩前に踏み出した。忌まわしい力をこれ以上ハイゼに近づけたくない…でも少しでもハイゼの側を離れたくない…そういう距離だった。
…さぁ…
あたしは心で呼びかけるようにして左手の拳を緩めた。竜の力に人の心が必要なら、あたしの心でもきっと同じことでしょう…?心はあげられないけど、竜の力を抑えるくらいなら出来ると思うの…帰還の意味がちゃんとあるなら。
空に向かって手を広げると、より明確に靄との繋がりが分かる。今この糸で繋がれているのはあたしなのだろうか…?それとも竜?…どちらでもいい、か。あたしも竜も、帰路に迷っているのはどちらも同じ。
あなたも帰るのよ…あたしと一緒に。
神殿の中で永い眠りについて…何百年後かにでも、またあたしたちのような人を見つけたら…
…その時は今よりも少しは優しくしてあげて。
「おいで…」
あたしは竜の靄から一時も目を逸らさずに小さく呟いた。竜の靄もこのまま帰れないのは辛いでしょう?今また気が付いた…あたしの帰る意味をあなたにもあげる。だからあたしを元の世界に帰して…。
竜の靄はそんな光姫の心に反応したかのように、再び上空でうねり始めた。
「お嬢!!」
料理長は思わず走り出した。彼だけじゃない、テオレルもサイフェルトもカルラも皆駆け出していた。
アリアはそれをもう引き止めたりしなかった。彼女自身の足もまた自然と光姫の元へ急ぐ。魔方陣で靄を防ぐことも、払うことももはや出来ない。仮に技術があったにしても望みなど…光姫がそれを望んでなどいない。アスベラの…セラともあろう私が、この期に及んで何の手出しも出来んとは…!魔方陣を敷いて彼女の身を守ることが、私に出来る唯一の手段だったのに。光姫…こんな私を無力だと、そなたは言わぬであろうな…。ならばせめて別れの間際に近くにいてやりたいのだ。自らの屈辱を少しでも晴らす気休めなのだと、そう思われても構わないから…!
竜の靄が流動しているのは、もう誰の目にも明確だった。まるで竜巻が起こる前兆のように、ゆっくりと回転を始めて光姫の手元と繋がる糸を辿って降下し始めた。例えば実際に竜巻の真下にいたとしたら…こんな感じなのだろうか…?目に映る黒い靄は、次第に視界の割合を独占していく。竜の体など既にないのに、まるで大きな口を開けて迫ってくるかのようにも見える。
あぁ…竜の靄はもうすぐそこ。
それでもあたしの心は冷静に見つめている。吹き降ろす風が砂を舞い上げて、あたしの周りを回転するように囲んでいる。目の端には皆の姿が見えていた。アルフが…料理長が駆け寄ってきているのは分かっていた。でも振り向けない…竜の靄があたしにだけ影響するように、ちゃんと見ていないと…いけないような気がして…。
大丈夫…あたしの帰還には今はちゃんと意味がある。
あたしは強く自分に言い聞かせた。ハイゼを元に戻したこと、竜をこの場から帰すこと、これだけの意味があれば物事は十分に変わる。ここは全てに意味のある世界…逆に言えば意味がなければ何も起こらない、意味があれば必ず起こる。
そう…意味は必然性…途切れてしまった道標に、再び示される定められた絶対の帰還。
だから…怖がらなくていいの。
あたしは両手を広げて竜の靄を迎えた。風と共にある種の威圧感が強まる。鳥肌が全身に現れるような体のざわめき…無意識に歯を食いしばっているあたしがいる。“怖がらなくていい”というのは、怖いからこそ言い聞かす言葉。物凄い勢いで靄が迫る。後悔はない…けれど心残りはある。でも…行かなきゃ、ね。あたしにとっての生活は、この世界だけじゃない、悲しいことに。元の世界にも一緒にいたい人はいる。
どちらかを選ばなければいけない時、切り捨てることが出来るものには必ず決意が伴うもの。あたしにはまだ元の世界を切り離す決意はない。でもこの世界とならある。こういう時って大事か大事じゃないかって、そういう選択は無意味なものね。大事なものほど強い決意を持てるのだから。
あぁ…もう…本当にお別れだ…
今までこんなにも強く別れを感じたことはなかったわ。いつも…生きていれば必ず会えると思う節があったから。…でもその可能性もないのね。本当の…本当のお別れ。それでも何故か“さよなら”の言葉はどこにも浮かんでは来なかった。