不意にあたしの体が竜の牙から解放される。投げ出されるようにしてあたしは地面に倒れてしまった。でもまだ大丈夫…まだ意識はちゃんとしてる。血と牙によって一瞬にしてボロボロになってしまったマントを引き摺るようにして、あたしは顔を上げた。痛みはまだ全身を貫く。体を支える両腕も頼りなく震える。
「ハイ…ゼ?」
一体何が起こったの?
竜は今までより一層苦しげにのたうち始めた。振り回す尾の空を切る音が飛行機のエンジン音のように轟く。喉から搾り出すように繰り返す咆哮が、物悲しく辺りに響く。大きな口を何度あたしに向けて開けてきても、それで何かを捕らえようともしない。
…今までと何かが違う。以前に竜の二面性を見たときとも違うの。竜の姿が…全体的な輪郭がどこかぼやけて見える。あたしの目は瞬きすることを忘れたかのように、その一部始終を見つめていた。どんどんと竜がハッキリしなくなっていく。影や靄といったものに近い。竜の咆哮は途切れることなく続いていても、肝心の体の方が竜の原型を留めなくなっていく。
…何が起きてるの?今のこの状況が、あたしにとっていい事なのか悪いことなのかも分からない。けれどあたしにはだんだんと見えてきた。竜の鈍色の靄の向こうで小さく揺れる仄かな光。その光の…光の色はね、紛れもない飴色。その光が徐々に人の形になっていくんだ。それは光を纏った愛しい人…光は心。ああ…やっぱり、やっぱり竜の中にいたのね。
「ハイゼ…」
あたしの目には涙が溢れてきた。竜からハイゼを取り戻して嬉しい気持ちなんて二の次だった。今はただハイゼに…人間としてのハイゼに再び出会えたことが嬉しい。体から一気に痛みが引いていく。
…すごいね、ハイゼ。あたしにとってあなたはこんなにも力をくれる存在なのよ。会いたかった…会いたかった…!誰よりも!…苦しませてごめん。辛い思いをさせてごめん。ハイゼがいつも守っていてくれた事、あたしちゃんと知ってるよ。だから今はあたしがあなたを守る番なんだ。
竜の靄は既に固定の形を失い、飴色のハイゼの光の周りを流動していた。ハイゼはぐったりとした体勢で光に包まれたまま動かない。心の光はハイゼの周りを囲んでいるけれど、体の外に出てしまっているということなのね…だけど…まさか…まだ心を使い切ってはいないよね?だってあたしはまだここにいるんだもの。終わってないよ…何もかも。あたしの仕事はむしろ今から始まるんだ。
光姫は強い眼差しでハイゼを見つめた。竜の靄に包まれているせいか、ハイゼの体は依然として宙に留まっている。…どうやったら助けられるんだろう…?あの靄の中に飛び込むべきなのかな…?光姫はそう考えながら立ち上がろうとした。しかし激痛によろめき倒れる。
「う…くっ…」
渾身の力で再び体を起こす。何度でも…何度でも、こんな痛み耐えてみせるから…!
「見ろ…!」
不意にサイフェルトの声が耳に入る。何か動きがあったの?お願いだからまだ心は使わないでいて…!光姫は恐る恐る顔を上げた。
「…竜が…」
光姫は思わず呟いた。竜の靄が小さな竜巻のように立ち昇り始め、上空でもう一つの塊を形成している。見るほどにどんどんと大きくなり、それに比例して光姫の目線の高さにある、ハイゼに纏わり付く靄の方は薄く小さくなりつつあった。そうか…あの靄は竜の体ではないんだ…。あくまで竜は魂だけの実体のない存在。靄は竜の力そのもの。黒に近い鈍色の、ただ強いだけの竜の力。そんなものに飴色の光を…ハイゼの心はあげない!
光姫がそう強く思ったのと同時に、ハイゼの周りからはすっかり鈍色の靄が払われた。今となっては糸のように細い靄が、風に揺らめきながら尚も立ち昇るだけ。ハイゼの飴色の光がより輝いて見える。助けなきゃ…ハイゼを。このままじゃ落ちちゃう…!光姫は体を引き摺った。血を吸って重くなったマントが今の体には堪える。一度俯くようにして荒く息を吐くと、顔を上げるのと同時に息を吸い込んだ。
「…え?!」
その瞬間に光姫は目を疑った。今までハイゼの周りで強く保たれていた光が、途端に流動し始めていた。まるで上空の竜の靄に呼び寄せられているかのように。待って…行かないで!それを取られたら何もかも終わっちゃう…!どうして…どうしてこんなに体が動かないの?!こんな大事な時に…!
ハイゼの光はその間に球状になっていった。体を離れ、そして少しずつ上空へ上がっていく。嫌だ…嫌だ…いや!!絶対に渡したくない!お願い…この後動けなくなってもいいから、体よ…動いて!
…ミツキ
言葉が直接頭に響く。ハイゼの声…飴色の光が共鳴する。
「ハイゼ…」
…これで帰れるな。
…お前の声、ちゃんと聞こえたよ。
…ありがとな…
「まだだからね…!」
あたしは泣きそうな声と共に立ち上がって走り出した、体の痛みなんかどうでも良かった…そんなもの、ハイゼの声に忘れていた。助けなきゃって…ただそれだけだったの。
崖から飛び出してどうなるかなんて、この時は微塵も考えてなかったのよ。