不意に体を強く引っ張られて、あたしは光の中から放り出された。足に久し振りに感じたその床に、あたしは倒れこんでいた。あたしはそれでも暫く瞳を閉じていた。今自分がどこにいるのかはちゃんと分かってる。何度も行き来していたあの頃に、必ず帰って来ていたあの場所…史書部屋から出てすぐの図書室の一角。がらんどうの室内に微かに残る本の匂いがそれを示唆している。

 あたしはゆっくり目を開けた。昔ながらの正方形の並ぶ木製の床が目に入る。傍らには行く前に置いていった自分の鞄。あたしがあの世界に行ってから、こっちではどのくらい経ってしまったのだろうか?あたしは右腕を伸ばして、鞄からはみ出ている携帯電話を取った。同じ部屋の同じ日付…違うのは 太陽の向きが行く前と逆になっていること…。

 あたしがあの世界にいた数ヶ月は、ここではたったの10時間ほどだった。二つの世界で時間の流れがまったく違うことは予め知ってはいたけれど、なんだかとても切なくなる。いっそ何日も何ヶ月も経っていれば良かったのに。そうしたらあれが夢ではなかったと胸を張って言えたのに…!

「ハイゼ…」

涙がこみ上げてくる。この心の空虚を満たすものなんて、この世界にはどこにもないんだ。あたしがあたしでいる間、どんなに待っても現れないんだ…。それならせめてあたしがいたあの世界の証拠が欲しい…欲しいよ…!

 

…カラン

 

左手の何かが滑り落ちる感覚に少し遅れて音がした。それと同時に左手に間違いなく感じる巻きつく鎖の感触。あたしは起き上がることもせず、自分の左手を見やった。そこにあったのは再び澄んだ紫色を取り戻していた石を抱いたペンダント。それは元々ハイゼのもの…竜を宿していた運命の石。ハイゼから竜を引き離すために咄嗟に自分の手に絡めたまま、一緒に世界を越えてきたのね。

 光姫はその左手を軽く握り締め、それを抱きかかえるように体勢を変えた。こんな…こんな救われる思いを今まで感じたことがあると思う?何もかもダメになるとしか思えなかったときは、命さえ失う覚悟だったわ。それが今はこうして手の中に希望がある。不思議ね…必然はいつ姿を変えたのかしら?物事は劇的に変わるよりも、ゆっくりと変わって来た時の方が振り向きがいがあるものよ。あの日朝一番に鞄を置いて扉をくぐった数ヶ月前か10時間前には、こんな風に泣いたり何かを大事に思ったりできなかった。あまりに多くのものを置いてきてしまったけれど、何一つ失ったわけではないのだと思うの。

「…そうでしょう?」

光姫は小さく呟きながら、体を起こした。こうして起き上がれるのが何よりの証拠。光姫は再び左手の拳を開いて石を見た。夕日に反射して紫の光がキラキラと輝く。

 

 

 

 ハイゼもアルフも料理長も…サイフェルトもカルラもアリアさんも皆々…あれからどうしたかな?

 

目に飛び込んでくる光の中で、彼らの姿を探すように光姫は思いを馳せた。

時間の流れが違うから、こうしている間にも向こうではもう夜になっているかもね。きっと西海岸のあの拠点で料理長がご馳走を作ったに違いないわ。サイフェルトたちも一緒かな?食べ過ぎて盗賊のクセに図々しいなんて言われたりして、でもアリアさんは多分そこにはいないはずね。アスベラの家で静かに物思いに耽っているような気がするわ。オクルはあれからアルフや料理長に懐いているのかな?ハイゼは…ハイゼはどうしているかしら…?

 

光姫は瞬きもせずにそこまで考えて再び目を閉じた。何故だか一番愛しい人の予想だけはできなかった。心のどこかで自分が側にいることを想像したいから…なんだろうな。

 

 

ハイゼ…本当は今すぐにでもあなたに会いたい…

 

 

涙を隠すように光姫は手を額に当てた。どんなに願っても会えない事なんて理屈ではとっくに分かってる。もうあたしがあの世界に行く意味はない。だから行けるはずもない。もちろんずっと一緒にいるだけが、人の繋がりなのではないということは分かってる。一緒にいられなくても…長い間会えなくなろうとも、繋がることはいくらだってできる。誰かを思う心があるなら。

 でも…それでも会いたいと願うことを、人はワガママだと言うのだろうか?巡り会う絆を知った今、そう感じることは自然なことなのだと思いたい。

「…ハイゼ」

虚ろな目で小さく呟く。涙が段々と滲んでくる。その名はかつて口にするだけで安心させてくれた言葉。だけど今は…

「ハイゼ…!」

今度は扉を見据えてハッキリと名を口にした。反動でポロポロッと涙が数滴こぼれる。誰もいない室内に名が響いても何も返ってはこない。その名は今は隔絶を思い知らせる言葉。

 

 どんな決意があったって…どんな覚悟を決めていたって…別れを切り捨てることなんか出来ない。あたしはそんなに強くないもの…。よくある物語の主人公のように別れを簡単には受け入れられない…!

 

ねぇ、ハイゼ…困ったことになったわ…

 

光姫は涙を拭いながらも少しだけ自嘲的な笑みを浮かべた。太陽が沈み始めても、光姫はその場から動けなくなってしまっていた。

 

     

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