あれから旧校舎の空っぽの図書室に行くのがあたしの日課になった。その時はいつもあの紫の石を首から提げて軽く瞳を閉じ、深呼吸をしてから一歩を踏み出すの。けれど…扉の敷居を跨いでも…そこにあるのはやっぱり空っぽの司書部屋だけ。あの頃のように光の中を一瞬で駆け抜けたり、再び目を開けたときに別の世界を感じることはなかった。
二度とは行けない場所、二度とは会えない人…。それでもいいと思ったことは一度だってなかったけれど…。
光姫の体には、よく見なければ分からないほど薄く赤い痣が走っていた。それはあの時竜が噛み付いた傷跡、あの世界のもう一つの証。誰にも見せないし、何があったかも教えない。この傷跡の影に潜む別の世界での出来事は。
ハイゼ…今になってあたしはよくあの時のことを考えるわ。最初から最後まで、あたしにどんな必然が働いていたのかを。…そして改めて思うの。あの世界への扉は本当はどこにでも開かれていたんじゃないかって。会うべくして会うために、あたしを引き寄せた力はずっと機会を伺っていたように感じるの。全てが必然に縛られていた中で唯一始まりを偶然とするならば、たまたまあたしが独りになって人気のない旧校舎に来たそれこそ、偶然がもたらした必然の始まりだったんじゃないかな?あたしはずっと図書室の司書部屋の扉に何か不思議な力があるのだと思っていたのだけれど。
光姫は微かな溜め息をついて司書部屋を出た。そして使われていない図書室に残っていたガタつく椅子に腰掛けた。
―…リゼットさんはこちらの世界が表だと言ってたわ…
真正面から扉を見据えて思いを馳せる。二つの世界で時間の流れが違うのは、あの世界があくまで必然性を与えられる場所だからなのね。だから早く時間が過ぎていく…少しでも表であるこちらの世界で多く生きるために。あの時あたしは自分が次にどちらに生まれることになるのか分からなかったけど、きっとあたしはもう一度こちらの世界に生まれるのだと思うの。そして再びあの人に会える…。
だけどやっぱりハイゼには少し待っていてもらわないとダメみたい。時間の流れが違うから、それだけはどうしようもないよね。どんなに寂しくても、あたしはこっちの世界で精一杯生きるわ。来世で胸を張ってあなたに会いに行くために。
光姫は少しの溜め息と共に柔和な笑顔を浮かべると、不安定な椅子から立ち上がった。もう随分気持ちの整理が付いた。帰って来てすぐの頃は、1時間ごとにこの場所に来ないと崩れてしまいそうだったけれど。大事なのは場所じゃない…心と石はいつでもあたしと共にある。
ね、ハイゼ。言ったでしょう?あたしはいつもあなたと一緒よ。
光姫は荷物を持って図書室の出入り口に向かった。最初は後ろ手で扉を閉めようとして、やっぱり振り返った。本当はまだ分からないことがある。最後にあたしに話しかけてきたあの声の主。思えばあの時だけじゃなかった。夢の中でも…あたしに話しかけてきていた。あれは一体誰だったんだろう?あの時、何が「あたし」なのだと言ったのだろう?私は最初あれは竜の声なんだって思っていた。でも最近になって思うのは…
「…やっぱりいいや。」
光姫は目を逸らすように首を傾げながら呟いた。何もかも知ることが全てじゃないわ。知らないままにしておく事が大切だって事もある。あれがあの世界から与えられた課題なら、考えることでそれも一つの支えになる。
だけど…一つだけハッキリ言えることもあるの。
それは、この世界にも思っていた以上に意味のあることは多いということ。あたしはこれからどれくらいそれに気付けるかしら?この世界に生きる間の何もかもにそれを感じられたら、きっととっても素敵ね。あたしはそのチャンスを与えられたのだと思うの。だからこそこれからをもっと大切に生きていきたい。
すべてに意味がありますように…
全てがあの人に繋がっていますように…
あたしの生きる意味があなたに会うためなら、これから生きるのも辛くない。
光姫は少し微笑んで図書室の扉を閉めて歩き出した。多分…もうここには来なくても平気。だけどあの世界を忘れたり目を逸らしたりするわけではないの。
生きていくわ。この世界にも、通り過ぎていった世界にも、決して背を向けずに。