崖の上を目指して、あたしとアリアさんの乗るニロの蹄の音だけが岩山の間に大きく響く。あたしは振り返るまいと心に決めていたのに、何度も何度も小さくなっていく点を目で追った。忘れないよ…だから忘れないで…。

「案ずる事はない。」

黙り込んでいるあたしにアリアさんが声をかけてくれる。

「ウォルトンを下に残してきた。何かあった時にはあやつを媒介にして防御の結界を張ることが出来る。私が近くにいなくともな。ミツキは自らのことに集中しなさい。そなたが帰ることが私の望みでもあるのだから。」

「アリアさん…」

あたしは昨日から彼女に感謝しっぱなしだった。アリアさんは昨日のあたしの考えを、厳しい表情を浮かべながらも受け入れてくれた。お前が…つまりあたしがそう思うならって。

 

 「アリアさんは…もう分かっているんですか?…これからのこと。」

あたしはふとアリアさんの予見の力を思い出して尋ねた。聞いて…結果を知ったところでどうしようもないのに。

「…いや。だが正直に申せば予見しようとはした。けれど読めぬのだ。こう多くの可能性がある状態ではな。いかんせん私の予見も推測の域を出ぬのだよ。」

「…そうですか。」

あたしは鬱な声とは裏腹に少しだけ微笑んでいた。…良かった、本当のあたしの考えは誰にも知られてないんだわ。理解してもらうのとは違うの、このあたしの作戦は。止められたくない…だけど皆が知ればきっと止めてくれるから、だから誰にも言わないで来た。この秘めたる胸の内を。

「どうかしたのか?」

「いえ…なんでもないです。…あ、そういえば…」

あたしは自分の思考を隠すように別の話題を持ち出した。

「聞いてもいいですか?リゼットさん…何故あんなにあたしの世界に詳しかったのか…。」

「聞かなかったのか?」

「ううん、でもはっきりとは教えてもらえなかったんです。“特別物覚えがいいだけだ”としか…。」

「なるほど…」

アリアさんは納得すると一呼吸おいた。ニロの足元を転がる石が軽快な音を発する。

「あの方はな…あの方は、遠い前世を覚えておいでなのだ。しかもその前世において伝説の竜の一件に居合わせていたらしい。あの方に長寿の秘訣を尋ねると“生に意味があるからだ”と仰っただろう?前世を覚えていたことと長寿であることは全くの無関係ではない。おそらくはミツキ…そなたに会い話すため、だったのだろうな。」

「…それじゃリゼットさんはもうすぐ死んでしまうの?」

「今までのようにとは行かぬだろうね。だがミツキが自分を責める必要はない。人間誰しも死を迎えなければならないのだ。意味を全うして死ぬのなら、あの方も幸せだろうよ。」

アリアさんはとても優しい声で話している。こっちを見てくれなくても、それが伝わってくる。

 

 

「ねぇ…アリアさん。少し聞いていてもらえませんか?」

「何をだ?」

「あたしが…今までずっと思っていたこと。」

「…いいぞ。」

あたしは小さく深呼吸をした。今吐き出したこの息みたいに、胸のわだかまりも出してしまいたい。

「あたし…本当にあたしがこの世界に来て良かったのか、悩んでました。」

アリアさんはその言葉に横目であたしを見た。

「もちろんあたしはこの世界に来れて良かったって思ってます。だけど他の人はどうなんだろうって…」

あたしはいつも人の目が気になるから…他人があたしをどう思ってるのかなって考えてしまうから、“いい人”でありたいの。どんな時も誰から見ても。だから悪いことはしたくない…いい事だけをしてあげたい。全部全部自分の保身のため。…そんなの本当の“いい人”じゃないって分かってるけど…。

「あたしが来て何もかも変えちゃったんじゃないかって思ってました。あたしが来なかったら何も変わらなかったのにって考えてるんじゃないかって…。あたし…皆を疑ってたわ。…最悪ね。」

自分がなんて愚かな人間か今更ながら思い知る。今まで皆の優しさに甘んじていたのが恥ずかしい。

「私はそうは思うわぬよ。」

胸のつっかえがどんどん大きくなっていくあたしに、アリアさんがはっきりと言い切った。

「変わらぬことを望むのは人間ならば致し方ないこと。私とてこのセラとしての力が維持されることを望んでおる。だが、何もかも変わらぬのが正しいことではないだろう?」

「でも…」

あたしがいなかったらリゼットさんはもっと生きていられた…ハイゼだって苦しまずに済んだ…そう考えてしまうの。だってあたしは場違いな人間だもの…異邦人の負い目はどうやったって拭い去れないんだよ。

「…では私か…他の誰かでも、もし逆にそなたの世界に行って同じようなことがあったとして、そなたは“いなければいいのに”と思うか?」

アリアさんはしっかりした声で問う。あたしの世界でこんなことあり得ないよ、なんて考えは微塵も浮かんでこない。

「…思わないと…思います。きっと大変すぎてそう考える余裕が持てないんじゃないかな…」

「ふふっ…なんだ、分かっているではないか。」

「え?」

思いがけず笑いかけるアリアさんにあたしは曖昧な一言を発してしまった。

「ここの者も同じだよ。ミツキの言ったようなことを思う者がいないとは言わぬし、今はそんなこと考えてる余裕などないのが大多数だろうね。だが、落ち着いた頃にはそなたに会えたことを喜ぶものだよ。私たちの出会いには意味があるのだから。…それに変わるというのは何も悪いことばかりじゃない。物事の良し悪しはその者自身が決めること。リゼット女史もルベンズの若頭も皆、そなたが来て変わったことを受け入れておる。ミツキもそれを受け入れて良いのではないか?」

「そう…ですね。」

たちまち涙が浮かんでくる…でも微笑みたくてたまらない。そうだ…皆はあんなに優しくしてくれたじゃない。何を心配に思うことがあるの?あたしはそれを受け入れていいんだ…無条件に。幸せじゃないか。心のどこかで“いけないことしてるんだ”って思ってたんだ。だから“いいよ”の一言が胸に響いたのよ。

「…大丈夫か?」

「はい。アリアさん、ありがとう…」

これで…胸の中の黒い雲が全部晴れた。今ほどあたしの心が澄み渡っている時はないわ。

 

 ハイゼ…背を向けないって難しいね。他の誰でもない…自分に背を向けずに立ち向かうのはきっと一番大変だよ。ハイゼもそうだったの?…あたしはまだあなたがどんな気持ちで竜になったのか知らない。でも…何かの葛藤を乗り越えてハイゼも自分に向き合ったんだとしたら、あたしもあなたに向き合えそうな気がするんだ。

 

     

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