待ち遠しかった…それと同時に心のどこかで来なければいいのにと思っていたその日がやって来た。自分が何時に目覚めたのかは明確には分からない。この岩山の内部を掘られて作られた老婆の館は、全体的に明度が低く、排気口のある部屋や廊下の一角でさえ時間がはっきりと分かるほどの光は望めなかった。
だけど朝…なんだろうな。傍らに寝ていたはずのカルラはいない。クッション山にはまだ静かに寝息を立てるオクルと、微かな緊張で指先の冷えるあたしがいるだけだった。
「ふぅ…」
あたしは小さく、けれど重みのある溜め息をついた。上手くいけば今日真実が分かる。それが嬉しいことなのか怖いことなのか、まだよく断定は出来ない。それでも聞くしかない。あたしはハイゼを助けたいのだから。
「ミツキ、起きてる?」
カルラが部屋に戻ってきた。
「うん…」
「あんたんとこの料理長が朝ご飯作ってくれたから、食べにおいでよ。」
「うん、そうする。」
あたしは緊張の解けないまま起き上がった。それでもカルラの顔をみると少しは落ち着く。あたしは髪と服を整えるとカルラと一緒に一夜のうちに食堂となった部屋に向かった。料理長もアルフもテオさんも皆揃ってる。今は心と体両方にエネルギーが欲しい、切実に。
「おはよ、お嬢。」
「料理長…おはよう。」
「大丈夫か?」
料理長は今まで見せたことがないような少し気弱な、けれどとても優しい顔をしている。他のルベンズも同じような表情をしている。色々なことがあったものね…ハイゼが姿を変えてから。その真実が垣間見れるかも知れない一日を控えているのだから、誰もが同じ気持ちになるよね。あたしもそう。皆誰かを心配するんじゃなくて、それぞれの心をしっかりと持とう。何を知っても受け止められるように。
午後になってリゼットさんは昨日とは違う部屋にあたしたちを呼んだ。重そうな扉に閉ざされる、この岩山の内部で一番大きな部屋。ここも多くの装飾品に覆われて大きな部屋でもやっとのことであたしたちの全員が入る。室内に排気口があるために、部屋の照明は小さいランタンが複数燃えている。
「さて…何から話そうかねぇ。」
老婆は独特の長いパイプを片手に持ちながら呟いた。
「あの…もう俺たちが知りたいことが分かってるんですか?」
リゼットの言葉にアルフが恐々尋ねる。
「分かっているさ。お前たちが聞きたいことには竜が関わっている、そうだね?それとお前にも、だ。」
リゼットは一団の最前列に座っている光姫に目を合わせた。
「どうしてそれを…」
あたしは思わず呟いた。もちろんタイミングを考えれば竜以上に思い当たる質問なんてないだろうけど、あたしのことも折り合いに出すなんてやはりこの老婆には何かある。
「お前はこの世界の人間ではないね?」
老婆の目はシワや歳で潰れてしまっているのに、鋭い雰囲気を目線に感じた。改めて核心を突かれて、あたしの心臓は一瞬とても冷たくなった。
「あの…あたしの世界のこと、何かご存知なんですか?」
このおばあさんには隠し事はきっと通用しない。それにもう覚悟を決めなきゃいけないんだ。微かに痺れている指先を隠すように、両手を膝の上で堅く握り締めた。
「知ってるよ。だが、それには他の者には出て行ってもらおうか。」
「あんだよ、俺たちには聞かせられねぇってワケか?」
「お願い、サイフェルト。」
愚痴を洩らしたサイフェルトに言葉少なに乞う。
「…分かったよ、ミツキ。お前には敵わねぇや。おい、野郎ども!撤収しろ、さっさとな!!」
サイフェルトは岩山の奥の部屋から、盗賊もキャラバンも構わずに追い立てた。キャラバンのメンバーは口々に“お前が仕切るな”といいながらも、おとなしく部屋を後にした。あたしは部屋を出て行ってくれる皆の背を見ることが出来なかった。…ありがとう。瞳を閉じて…少しだけ真一文字の唇を緩めてその言葉を口にした。
「さて、この世界のこと、お前はどれだけ知っている?」
「あたしが知っているのは…この世界では全ての事に意味があるということだけです。」
手を握りしめたままリゼットを正面から見つめる。これだけは揺ぎない事実。あたしが信じていい、何においても支えとなる基軸。
「その通りさ、この世界は常に必然性と意味とに縛られている。なぜならこの世界はお前の世界よりも神に近いからね。その証拠にここの世界の住人には、ひとつひとつの言動、行動、心持ち、それぞれに意味と必然性が求められる。そして異世界から来たものにはそれとは別に会うべくして会うための必然性が与えられるのさ。」
「会うべくして会う…必然性?」
「何故、お前はこの世界に来たと思う?」
あたしにはずっと出すことの出来なかった答えを老婆は求める。あたしは沈黙の代わりに小さく首を横に振った。
「お前がこの世界に来たのは、前世から由来のある特定の人物に出会うためさ。帰れなくなったのもそう。少しでも長くその人物と一緒にいさせるため。お前の場合には、あの竜になった男のことだろうね。」
「それじゃ、あたしはハイゼに会うためにこの世界に来たの?」
「そうさ。」
「何故?!」
光姫は間髪いれずに言葉を返す。思いをそのまま言葉にしているかのように。
「何故って?」
「何故あたしだけがこんな風に世界を越えられたの?ここにいる間、同じ世界から来た他の人の話なんて全く聞かなかった。何百年も前の伝説として本に書かれていただけ。誰かに会うためなら、何故他の人はこの世界に来ていないの?」
心のどこかで自分は何かに選ばれたんだと思っていた。何百年も世界を越える人物がいなかったのは、何か特別な理由があるんだって。だけど老婆が口にしたのは誰にでもあり得ること。 リゼットは長いパイプのタバコを深く吸い、白い煙を吐き出した。目の前が白く霞みがかる。
「それはね、普通は前世から繋がる“会うべくして会う絆”は同じ世界に揃うように生まれ変わるのが理だからさ。お前の世界ならお前の世界で、こっちの世界ならこっちの世界でそれぞれ会うのが常なのさ。だが、お前の場合は違う。何十年か何百年かに一度、その理が崩れて絆が二つの世界にバラバラに散ってしまうことがある。それがお前とあの竜の男の絆だったというわけだ。」
悲しくて…でもその反面どこか嬉しくて、言葉にならない。涙も出ない。心が締め付けられる。
「前世からの繋がりは絶対だ。前世の出会いは来世での巡り会いをもたらす。会うべくして会う二人は必ず出会わなければならない。そうでなければ来世での絆が成立しないからね。だからお前は前世からの出会いの絆に引き寄せられてこの世界に来たのさ。何十年、何百年先の来世でも変わらずあの男と巡りあえるように。」
これが…これが意味だったんだ。あたしがこの世界に閉じ込められていた意味。ハイゼに会うため、それにこれから先でも会えるようにと意味づけされた来訪。
今まで塞き止めていたものが無くなったかのように、涙がボロボロと自然に零れ落ちた。でも何故涙が止まらないのか上手く言葉にはできなかった。心は落ち着いている、悲しいわけでも淋しいわけでも嬉しいわけでもない。なのに涙はこぼれる。それがあたしを支えるもう一つの大きな力になるように。