「相変わらず礼儀知らずな小僧だね、お前は。」

長い廊下の先、岩を削って作られた階段を下がったり上がったりしてようやく辿り着いた部屋でたしなめの声に迎えられた。混じりけのない長い白髪を緩い蜜網で束ね、背を丸めた格好を乱すことなく部屋の真ん中に老婆が座っていた。微かに感じる威圧感…。今年で何歳になるのかまるで見当がつかない。体のあちこちはこれ以上老いようがないほどであるのに、思考や心はしゃんとしていた。

老婆の部屋は辿り着くまでに見たどの部屋よりも広いのだけど、様々な装飾品や一部天然のままの岩壁が少し狭い印象を与えている。窓はない。部屋を照らす複数の明かりは炎とも電気とも違う(尤もこの世界に電気は存在しないが…)。明確に適応させられる言葉が見当たらないのだけど、強いて言えば蓄光素材が放つそれに似ていた。

「ドーモ。お久しぶりデス、おばーさん。」

サイフェルトは抑揚のない声で挨拶らしきものをした。

「白々しいね、逆に気味が悪いよ。」

「そう思うなら礼儀をとやかく言うなよ。嫌なババァだな。」

「お前も口が減らないねぇ。随分音沙汰がないからくたばったかと思ったよ。」

「…その言葉そのまま返すぜ。一体いつまで生きるつもりだよ。」

「生きるのに意味がある限りさ。」

リゼットは決して言葉を迷わない。生きる意味がある限り…あたしは心の中で反芻していた。ここでは意味がある限り可能性を信じていいんだ。

「ところで見慣れない者が多いね。」

リゼットはサイフェルトのやや後方に控える一団に目をやった。

「ああ…こっちは俺の盗賊仲間、んでこっちはキャラバンだ。ルベンズ・キャラバン、名前くらいは知ってんだろ。」

「もちろんさ…」

そう呟きながらリゼットの目は光姫に合わせられていた。不意に目が合ってあたしは思わず目を逸らしてしまった。何もかも見抜いているような眼光…さりげなくカルラの背後に隠れる。

「何か知りたくて来たのだろうが、今日はもうお休み。随分疲れてるみたいだし、明日改めて聞こう。」

リゼットは鋭い眼差しとは裏腹に優しい声で促した。確かにとても疲れていた。それに竜の翼が当たった腹部もやや痛む。内心そうさせて欲しいと望んでいたし、実のところはリゼットから真実を聞きたいような聞きたくないような不安定な心持ちだった。何とか平静を保っていられたのに、それが簡単に崩れてしまいそうで…。

 

 

「部屋は空いているところを好きにお使い。女の子たちはこの奥を使うといい。」

リゼットはそう言って一団を解散させた。ルベンズやサイフェルトたちはその言葉どおり、意外と広い岩山の内部の各部屋に散らばっていった。あたしとカルラは勧められた部屋へと入る。部屋に山積みにされているクッションはおそらくベッド代わりな のだろう。窓には小さく歪に開いた穴があり、外から見てそれと分からないように排気口として設けられている。だからこそこの部屋にはランタンがあったし、廊下や他の部屋に比べて室温がいくらか低かった。それでも岩が外熱を上手い具合に遮断していて、昼夜を問わず一定の室温を保てるようになっていたのだけど。

「ヒメ、ちょっといいか?」

「くぉら!!勝手に入ってくるんじゃなぁい!!」

部屋の扉代わりの大きな布をくぐろうとした途端、サイフェルトはカルラの怒号に跳ね返された。光姫は慌ててたくし上げていたワイシャツの裾を下げて元に戻す。ちょうど腹部の痛みをカルラに相談していたところだったのだ。

「サイ、ルベンズの誰かは一緒じゃないの?」

「いや、いないけど…あ、今来た。」

サイフェルトは驚きと少しばかりの不満がこもった声で、同じく様子を見に来たアルフを呼んだ。

「何ですか?」

布から顔だけ出しているカルラにアルフが尋ねる。

「オッドって人はいる?」

「オッドさん?来てますけど…もしかしてミツキさん怪我してたんじゃ…」

「そんな深刻な訳でもないのよ。念のためだから呼んでもらえる?」

「はい!」

アルフは廊下を走って戻り、ルベンズの医者役であるオッドを呼びに行った。光姫が最初に負った火傷や傷は随分癒えていたけれど、代わりに腹部に痣が出来ていた。ハイゼの…いや、竜の翼が当たったために。幸いだったのは当たり方が広範囲だったので大きな痣と引き換えに、体の内部に影響がなかったこと。

オッドは相変わらず寡黙な治療で塗り薬を塗ってくれた。この世界独特の樹液と数種類の薬草と蜜を合わせたもの。劇的に痛みがなくなるわけではないけれど、塗れば痣を消してくれる一種の民間療法だった。

「ありがとう、オッドさん。」

「いや…。」

オッドは最後に光姫にさらしを巻きながら一言で済ます。

「サイフェルト、もう入っていいわ。」

全てが済んで服を調えつつ、部屋の前で足止めされていたサイフェルトを呼んだ。その声にオッドと引き換えで彼が入ってくる。

「どうしたの?」

「いや…ちょっとな。」

サイフェルトはチラッとカルラに目をやる。カルラは無言のままそれに承知して立ち上がると部屋を出て行ってしまった。サイフェルトはそれを見届けて光姫が腰掛けているクッション山の隣に座った。その振動に同じくクッション山で丸くなっていたオクルが目を開ける。しかしオクルも疲れているのか、目を開けただけですぐに再び眠り始めていた。

 

 

「あの…さ。」

静かに会話が始まる。ずっと俯いていた光姫にとって、こうしてちゃんとした会話をするのは久しぶりのような気がしていた。

「具合はどうだ?」

サイフェルトは顔を光姫に向けて柔らかな笑顔を見せる。

「うん、平気よ。」

サイフェルトの方こそ何を隠してるの?その笑顔の裏に…。

「ミツキ…泣きたかったら泣いてもいいんだ。」

「え?」

予期せぬ言葉だった。指先から一瞬だけ血の気が引く。

「ずっと我慢してきてたんだろ?今のアイツに義理立てする必要なんてないよ。」

サイフェルトは優しく諭す。真っ直ぐな瞳にあたしを映して…。

「あたし…あたしは…」

“我慢なんてしてないよ”と言おうとしても言葉が続かない。溢れてこない言葉とは裏腹に 眼窩に涙が溜まっていく。けれどぐっと力を入れて堪えた。涙は平面張力で何とか零れずにいる。

「自分のために我慢して欲しくないと思ってるよ、アイツは。」

サイフェルトはそう言ってあたしの手を取った。優しくされると涙が零れそう…その方が楽になるってことも分かってるの…でも…

「…泣かない。」

あたしはやっとのことで呟いた。

「なんで?!」

サイフェルトは少し強引に光姫を自分の方に向かせた。光姫は俯いている。しかし涙はもうない。

「どれだけ泣いても泣き足りないから、それならいっそ最初から泣かないことにしたの。」

光姫はそう言いながら少し赤い決意の瞳を上げた。

「それにね、悲しくて泣いたら何もかもダメになっちゃう気がするんだ。この世界には意味があるから、あたしが泣かないでいることにも何か意味付けができるなら…泣かないでいたいの。気休めでもいいから…。」

「ミツキ…」

サイフェルトは遠慮がちに光姫を抱き寄せた。ただ腕を後ろに回しただけでちっとも強くもきつくもない。でも心が暖かく広がっていく。これがサイフェルトの出来る限りの優しさだった。光姫の心にはいつでもハイゼがいる。それなのに強引に抱き寄せたりなんか出来ない、したくない。

 

「お前と最初に出会っていたのが俺だったらな…」

サイフェルトは小さく呟いた。

「そんなのダメよ。」

その言葉に光姫はサイフェルトの腕の中で顔を上げ、微笑みかけるように少し冗談交じりに否定した。

「サイフェルトにはカルラがいるじゃない。」

「はぁ?!何言ってんだよ、ヒメ!!」

サイフェルトは飛び上がるように驚く。でも分かってるんだ。二人ともお互いを“どうでもいい相手”と思っているようにしていながら、実際はとても大切にし合ってる。気付いているかいないかは別として、ね。

この世界での男女の出会いがすぐに恋愛に繋がるわけではないだろうけど、それでもサイフェルトとカルラはそうだと思ってもいいと感じるんだ。気心の知れた幼馴染がだんだんと近づいていくように。

「あいつは単なる部下…そう、部下だよ!そんなんじゃない。」

「ふふ、そうかなぁ?」

光姫は柔和に微笑んだ。心はここ最近浮き沈みを繰り返す。今は少しでもその浮いている時間を長くしていられるように頑張ってる。

サイフェルトがある種の逃げ道を示してくれたおかげでまた少し元気になれた。今はその逃げ道に駆け寄るわけにはいかない…でも実際に言われたとおりにしなくても、言われただけで物事は大きく変わるものだ。これは元の世界でも同じこと。心の余裕はほんの少しのことでも大きく膨らむの。

 

「ありがとう…サイフェルト。」

今はこの言葉を何度でも言わせて。負い目に感じることは何もない。ただ本当に感謝と嬉しい気持ちで言いたいんだ。誰かに救われる思いをこんなに強く感じるなんてなかったのだから。

 

 

     

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