もしも全ての世界が平和になったら…。
そうカイは約束をした。しかし、それを誰と交わしたのか、世界が平和になったら何なのか、彼はうろ覚えにすら覚えていない。混沌とした闇の中で響いてきた言葉…この時カイに与えられていたのは、曖昧に語尾を消したこの言葉だけだった。
「う…」
深い森の中で、二十歳を少し過ぎたばかりの青年・カイは目覚めた。自分のいる場所がどこなのかどころか、どうやってここまで来たのかさえカイは思い出せなかった。湿地帯に倒れていたせいか、彼の羽織っていた擦り切れたマントは余計に古びて見えた。
「私は一体…」
ひどい頭痛がする。そういえば誰かと何か約束をしたっけ…。何も思い出せない。遠い昔のようでいて、つい一瞬前のようでもある。頭痛から来るめまいと不安で、カイは目を閉じた。たとえ約束を交わしていたにしても、こんな何も思い出せない私に何ができるのか。
カイははっとして目を開けた。まだめまいは治っていなかったが、うっそうとした森の奥で木々を踏み分ける音がしたからだ。木漏れ日さえ十分に届かないこの重苦しい森に、果たして人がいるものだろうか。カイは顔を上げた。
「…誰?」
高い声がした。意外だった。木の陰から顔を出したのは十代後半の少女だった。
「あなた…兵隊?怪我でもしたの?」
「いや。」
「何でこんなところにいるの?」
「さあ。」
カイはそっけない返事をして少女から目をそらした。少女はカイを少し不審な目で見つめている。それから少女もカイから目をそらし、身を隠している木の皮をいじるように何枚か剥いた。
「どこか…遠いとこから来たとか?」
「そんなところだ。」
「本当に兵隊じゃないのね?」
「ああ。」
「こんな所にいたら危険よ。兵隊じゃないなら、あたしの村に連れてってあげる。」
少女は木から飛び出してカイに近づいてきた。
「立って。」
少女は手を差し伸べた。頭痛のめまいからやっと解放されたばかりのカイは、今度は立ちくらみのめまいに襲われた。
「うーん…」
まじまじとカイの身なりを見つめて少女はうなった。
「怪我してなくたってその格好は何とかしたほうがいいわね。ボロボロの上にビショビショじゃあみすぼらしいのにも程があるわ。」
「君はずいぶんはっきりと物を言うんだな。」
カイは目覚めてから初めて顔の筋肉を使ったような気がした。
「だって本当の事じゃない。あなた、なかなかイイ男なのにもったいないわ。せめて洗濯くらいしなきゃ。」
少女はさらに言葉を続けた。
「そういえば名前がまだだったわね。あたしはラナ。あなたは?」
「私はカイだ。」
「そう…よろしくね、カイ。足元に注意して、ちゃんとついてきて。」
細身で日に焼けた肌と色素の薄い短髪のラナは、その見た目にふさわしく深い森の中を知り尽くしたように先導し始めた。カイもラナの後に従った。
「何の音だ?」
しばらくの間一言もしゃべらず黙々と歩き続けていた時間を、カイの言葉が打ち破った。
「え?何が?」
ラナはカイの方へ振り返り、カイはさらに後ろの森を見つめ、音のした方向とその正体を探ろうとしていた。
「あたしには何も聞こえなかったけど?」
「いや、しかし…。」
カイは神経を集中させる。
「…銃声?」
「え?」
「どこかで大勢の人間が撃ち合っている。」
カイは顔をしかめた。何故だか吐き気がする。
「ああ、きっと森の外でまた争いが始まったからだわ。でも大丈夫。この森は深くて複雑だから軍隊は入ってこれないし、外から森の中を蜂の巣にしようったって、木に阻まれて銃弾はここまで届かないから。」
ラナは指し示すように一本の木に触れた。南に向いた木の表面には、生々しく銃弾の痕跡がいくつも残っていた。
「ここでは戦争が起きているのか?」
「うん。ずいぶん前からね。あたしが生まれる前からだから、もう二十年にくらいになるのかな。でもどうして戦争が始まったのか、あたしはよく知らない。近頃は泥沼化してきているって父さんが言ってるけど…。」
「そうか…。」
カイは戦争が怖いとは思わなかった。吐き気がしている割にはそれが憎いとも感じなかった。ただ漠然と使命感にも似た感情が沸き起こってきて、いやに右腕が痛んだ。
「どうしたの?何か気になるの?もう少しで村だから早く行こうよ。」
立ちすくんでいるカイを、ラナは促した。