「おはよう。佐保、竜田。」

 

青年が誰にともなく話し掛けると、犬などどこにもいないのに、僅かにそれに応えて唸るような声が境内に響いた。ここは双姫神社、青年の名は日高昴といって、口の利けるものもそうでないものも、等しく彼を“昴”と呼んでいた。年の頃は20と少しで、身長は170pそこそこ、色白の肌に細身の体。黒く短い髪は緩やかに流れ、瞳は丸みを帯びつつも切れ長で、とても凛々しい印象を与える。だがその一方で昴は、女性ですら持ち得ないほどの美しさも兼ね備えており、それが世間の知るところとなればどれだけ騒がれたか、到底知れたものではなかった。

 

 

 

 「雨が来るのぅ、昴。」

拝殿の縁側を歩く彼に、どこからかそう話し掛ける声がした。小さな子供のようでいながら、とてもゆっくりとした古風な話し方。だが周りを見渡せど、やはりその姿はない。いくら犬の唸り声がしようと、はたまた子供の声が聞こえてこようと、双姫神社はただ静かに佇むだけ。天から覆いかぶさるような木々と、古さゆえに全体的に黒ずんだ拝殿と、誰も立ち入れぬ本殿。朱塗りの鳥居はもはや剥げかけ、阿吽の狛犬は苔むしている。そこに小さな稲荷の社も控えてはいたが、その様相はなんら変わらず、青葉闇に湿っぽい土の匂いが、辺りを満たすばかりだった。

 

「…あまりいいものではないね、ひこばえ。」

 

「難儀よのぅ。さほど遠くはないぞ。」

 

「仕方ない。」

 

昴は諦めて小さくため息をついた。卯月も終わりになって、空はとても晴れ晴れとしていて暖かいのに、木々の重なった枝の下は湿気と相成って余計にひんやりとしている。ぞくぞくとする心地は、周りが穏やかであればあるほど不穏を増す。

 

「さて、それじゃあ雨が来る前に用事を済ませておこうか。」

 

昴は嫌な鳥肌を覚えながらも、拝殿の正面に回ってその中へと足を踏み入れた。境内の土と同じくらいにじめじめとした冷たい畳のその先に、神棚がきちんと据えられている。その中心の鏡が映すのは俗世間ではないのだから、少しの曇りは気になるまい。

 

「たまには風通しを良くしてもらいたいものよのぅ、昴よ。」

 

拝殿に入った途端に、部屋の隅からそう聞こえたかと思うと、ちょこんと小さな子供が立っていた。男とも女とも識別しがたいその顔はまだ34歳の幼子で、黒髪はきちんと切り揃えられて腰の辺りまで伸びている。丈の短い着物を纏っていることが、特に俗世を離れているように思わせた。

 

「そうだね、ひこばえ。お前の大事な家だからね。守る座敷を無くすわけにはいかないし。」

 

「まったくじゃ。」

 

ひこばえと呼ばれた幼子は、パタパタとかわいらしい足音を立てて拝殿を走り回った。座敷童子のいる家は、末永く穏やかにあるという。このじっとりとした建物が、今の今まで傷まずにいたのも、まさにそれがためであった。

 

 

 

 

 「ところでのぅ、昴。」

不意に足を止めたかと思うと、ひこばえは振り向いた昴の目線を一点へと向けさせた。神棚の影、それと言われなければ気がつくまい。小さく古い香炉が遠慮がちにこちらを見ていた。

 

「…まだ“そう遠くない”んじゃなかったのか?」

 

「遠くなかったのじゃ、先程まではな。」

 

だから儂は悪くないぞと言わんばかりに、ひこばえは悪戯に笑ってみせた。

 

「やれやれ、これじゃ掃除もできやしない。」

 

昴は形式的に頬を膨らませたが、実際にはその香炉をそっと大切に手に取って、拝殿の中心まで持ってきた。鈍色の香炉は青銅製で、昴の両手にすっぽりと隠れてしまうほど小さい。全体は水滴の形状で、そこに取っ手やら足やらが細かな装飾で付けられている。おそらく鋳物なのだろう。だが相当に古い。長く誰にも使われなかったか、もはや残り香さえ漂っては来なかった。

 

「やるかえ?」

 

「…そうだね。雨が降るなら降るで、早いとこあがってもらわないと。」

そう言うと昴は拝殿の中心で正座をして、その目の前に香炉を置いた。そしてふーっと長く息を吐いて瞳を閉じた。

 

「いいよ、ひこばえ。」

 

「うむ…』

 

その幼子の返答は半ば空間に溶け込む霞のようで、ふわりと聞こえて消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 不意に“しゃららら…”と御簾の擦れ合う音で昴は再び目を開けた。そこは湿っぽい空気など微塵もない、質素で豪華な部屋だった。昴は御簾の近くで神主が着るような出で立ちで座っていた。ここはおそらく平安時代。足元の香炉からは芳しい香が漂っている。

 

『着いたぞえ、昴。』

 

見慣れない部屋には再びひこばえの声が響く。くぐもって微かな、昴の耳にだけ届く声。

 

「あぁ、ありがとう、ひこばえ。」

 

昴はそう口にしながら、目を細めて御簾の向こうを見遣った。段々と明るくなる光が庭の枯山水を照らしている。今は明け方なのだろう。空には未だ宵の月が残っていた。

 

「…星の君」

 

か弱い女性の声がして、昴は御簾とは反対の方向へ目を遣った。少し乱れた寝屋には、黒髪が美しい女性がくるまっている。あぁ…そうか、これは後朝の夜明け。何回目かは分からずも、通い婚間近の朝なのだろう。

 

「…いかがしました?」

 

昴には事を済ませた覚えも、“星の君”と呼ばれる道理もなかったが、それをあえて留めて尋ね返した。ひこばえの力で時を越えて来た以上、何も知らなくともなりきらなければならない。

 

「何故そのように御簾の近くにおいでなのです?まだ宵の口ではありませんか。」

 

「そうですね…」

 

昴は様子を計りながら曖昧に返答した。突然訪れたこの場面でどうすべきか、それはすぐに分かるものではない。けれどどこか秘密裏にやってきた夜の明けのようで、今のうちに人知れず帰るべきような気がしていた。

 

「…また今宵もおいでになりますか?」

 

女性は昴の態度に怖ず怖ずと尋ねる。通い婚のこの時代、男性が三晩続けて女性のもとを訪れれば結婚が成立する一夫一妻多妾制。今夜来るなら、それと決まるのだと見える。しかしこの女性が生きていた時代に、“星の君”などという人物は存在しない。かつて実際にこうしていた他の誰かと昴を重ねているだけなのだ。おそらく望んだ三度目の逢瀬はなく、失意のままにこの場面を繰り返してきたのだろう。今は目の前で芳しい香をさせている香炉を見つけて、ひこばえの力を頼んだからこそ相まみえたものを、そうでなければ昴でさえ到底会うはずなどなかったのだ。

 

「…後朝の歌をお贈りします。」

 

もとよりひこばえの力無しには来れぬ場所。昴はそれとなく否と返した。叶わぬ希望を安易に口にしては、ただこの浮かばれぬ思念を引きずるだけ。いつまでも香炉の中で哀しい思いはさせたくない。

 

「いいえ…いいえ!星の君…!」

 

すると女性は寝間着のまま布団を飛び出し、立ち上がった昴の足に縋り付いた。

 

「どうぞ今宵も来ると言ってください…!それが叶わぬなら、もうどこにも行ってくださるな…!」

 

「しかし…」

 

女性の必死の形相に、それをなだめようとする昴の背後で、突然にザザザザァ…と雨が激しく庭石を打つ音が響いた。見れば先程まで晴れの装いだった空が、今やすっかり曇天へと姿を変えて、季節外れの白雨を降らせていた。それは正に遣らず雨。人の出入りを一切拒む雨の壁。

 

「…いけない人だ。」

 

昴は御簾の外を見遣ってから、ゆっくりと女性を流し目に見つめた。愛しい男性をどこにも行かせたくない一心で、とうとう自在に雨を降らせるようになってしまっていた。

 

 

 『昴。その女、危ういのぅ。』

様子を見ていたひこばえが同じく呟いた。確かにこのまま放っておけば、いずれ妖しに身を落としかねない。いや、こうして香炉に魂を宿してより千年。すでにその半分はのまれたか。

 

「そうやって雨が降ることばかりを望んでいては、晴れの日が恨めしく思えてしまうでしょう?」

 

昴は縋る女性を前に微動だにもせず、それでも優しく諭すように喋りかけた。

 

「いいえ…!貴方なしではもとより晴れなどありませぬ…!」

 

途端に女性の黒髪はざわざわと不穏に揺らめいて、まるで生き物のように昴に絡み付いてきた。幾重にも重なる大蛇が、足元からはい上がってくるような悍ましさ。先程まであれほど美しかった顔立ちも、今は狂気に淀んでいる。

 

『昴…!なんとかせい!』

 

段々と黒髪にのまれていく様子に、ひこばえが思わず声をあげた。もはや昴の胴体までもががんじがらめで、毛先の一部は首筋に達しようとしていた。このまま捕われれば、この女性の魂と同様に香炉に永く閉じ込められることになる。

 

「…仕方がない。」

 

昴は実に落ち着いて溜め息混じりに呟くと、すっと右手を天へと挙げた。

 

「あぁ…っ」

 

女性は悲観的な声をあげた。昴が手を挙げたと同時に庭の喧騒はたちまちにおさまり、空に今だ曇天を留めつつも白雨がぴたりと止んだのだ。

 

「あ…あぁ……雨が…」

 

「人の出入りを拒んだままでは、いずれ訪れたであろう幸せをも拒絶していたことでしょう。どうぞその頑なな心を解きなさい。手元にあることに固執するばかりでは、受け入れるべきものも失いましょう。」

 

「…何故…何故なのです…」

 

昴の言葉に今やすっかり黒髪を元に戻して、女性は絶望に呟いた。

 

「何故雨すら私を拒むのです…!あの方は後朝に、“夜明けに雨が降っていたなら、このまま私といられたものを”と詠ってくださいました…。もしあの朝に雨が降っていたなら…!あの方が帰れぬままだったなら…!あの方と夫婦になれましたのに…。何故雨は降らぬ…あの方は来ぬ…!?何故……っ…お待ちしておりましたのに……」

 

女性はそのまま突っ伏してはらはらと涙を流した。当時の朝と同じように雨のない庭に、哀しい正気を取り戻したのだろう。昴はそれを前にして、右手を元のように戻した。雨は静かにしとしとと降り出した。

 

「雨を願う貴女の心は一途で美しいものだったでしょう。けれどいつしかそれが姿を変えて、貴女を蝕むようになってしまっていた。…終わりにしてあげましょう。しがらみは雨に流してしまいなさい。」

 

昴はそう言うと、その場にしゃがんで女性の耳に囁きかけた。

 

 

 

 

「宵明けて  行方は絶えなん  遣らず雨  さやかに見えぬ  月の欠くまで

 

 

 

すると女性は不意に顔をあげた。そして涙で目元を濡らしながらも、しかと昴を見遣った。

 

「それまで…いてくださいますの…?」

 

「えぇ、せめて雨が止むまでは香炉(あなた)を傍に置きましょう。」

 

昴が強く請け負うと、女性はとても嬉しそうに微笑んで、ただ一言「良かった」と呟くと、霞が晴れていくように消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お主は甘いのぅ、昴よ。」

 

気がつくと周りは再びじっとりとした拝殿の中で、傍らのひこばえが苦言を漏らしていた。

 

「…そうかい?」

 

「そうじゃ!まったく、お主が甘やかしたせいで…見るがいい。外は土砂降りじゃ。」

 

言われて見ると、先程までの青空がまるで幻だったかのように、雨が音を立てて降っていた。風もなく、ただ真下に降り続けるしとやかな雨。何もかもを流していこうとしているのか、早くも境内には水溜まりが出来ている。

 

「雨などあのまま断ち切ってしまえば良かったものを。お陰でせっかくの風通し日和が台なしじゃぞ。」

 

「…そうだね。お前には悪いことをしたね、ひこばえ。お詫びにあとで金平糖をもってきてあげる。」

 

「む…ふむ…」

 

砂糖菓子に目がないひこばえは、不平の口を閉ざして満更でもなく「次の晴れには必ずじゃ」と釘を刺した。昴はそんなひこばえに微笑みかけると、流し目にもう一度外を見遣った。

 

「思えば夕べは満月だったね。」

 

木々の影がくっきりと現れていたほど、珍しく明るい月夜だった。こんな都会で一体どれだけの人がそれに気付いたろう。一等星すら成りを潜める輝く夜に。

 

「そうじゃのぅ。じゃがこの様子では、今宵の十六夜月は見えぬぞえ。」

 

「それでも…何日かして、月が欠けてきたなとはっきり分かるようになったら、この雨も必ず止むよ。」

 

そう…さやかに見えぬ、月の欠くまで。そうすれば千年の哀しい思いも救われよう。

 

 

 

 「…さて」

 

暫く正座したまま雨の音を聞いていた昴だったが、不意に目線を外から香炉に戻して呟いた。

 

「はい、ひこばえ。」

 

「な…なんじゃ…?!」

思いがけず昴から香炉を手渡されて、ひとばえは驚きたじろいだ。ひこばえの小さな両手に、満足そうにちょこんと乗っている鈍色の香炉。それは先程よりも些か輝いて見える。

 

「これを一体どうしろと言うのじゃ?!」

 

「うん、雨が止むまでは傍にいるって約束したからさ…」

 

ひこばえに後をパタパタとつかれながら、昴は神棚の蝋燭に火を付け始めた。

 

「どうせこの雨じゃ外には出られないし、それならこの家そのものの君が持っているのが一番いいだろう?」

 

そうすれば社に留まる限りは一緒にいることになる。

 

「確かにそうじゃが…まさかそれまでずっと持っていろとな?わしの両手が塞がって…」

 

「はい。」

 

ひこばえの言葉を無視するように、昴は供え物の椀から小さな干菓子を一つ取って、開いていたひこばえの口へと放り込んだ。すると「むぐ…」と声を途切らせて、見る間に膨れた頬を赤らめていった。

 

「頼んだよ。」

 

そしてにこりと満面の笑みを向ける。

 

「…仕方がないの。」

 

ややむっとした表情を浮かべてはいても、頬が赤らいでいては説得力に欠ける。ひこばえもそれを承知で小さく呟いた。神棚の蝋燭が二つ灯り、それだけで拝殿の中のじっとりとした空気が緩和されていくようであった。思えば晴天の予報で外出していた人達にも悪いことをした。けれど…

 

「千年の夢から覚めて、そしてもう一度お休み。」

 

今度は幸せの内に輪廻の輪に乗れるよう。

 

 

 

 

この日降り出した雨は、予報に反して三日続いてそれから止んだ。

 

 

 

 

 

 

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