「今年も藤宮家の梅は綺麗に咲きましたね」

通りすがりにそう話している声が聞こえて、私は振り返り小さな会釈を致しました。

 

 

 

 

 

時は大正三年、如月。

 

江戸の頃に細々と営んでおりました橋渡しがいつしか海運業となり、明治の日清・日露戦争の特需を受けて、今や我が藤宮家は大きな財閥に成長致しておりました。尤もその財の大部分を築いた祖父母は私が幼い頃に他界して、今はその息子である私の父が中心となって同じように日々勤めております。更にその跡を継ぐのは私の兄になることは必須のことで、私一人が海運業の何をするでもなく毎日を過ごしていたのでありました。物心ついた時には既に大きな屋敷であったことの幸いなること。その広い庭には沢山の種類の花が咲き乱れ、単調なお稽古の合間にふと見渡す庭の様々な様相に、私の心は幾度も救われていたのでした。

 

今時分のまだ冬の寒い時期には、毎年紅梅と白梅がその豊潤な香を辺りに振り撒いています。先ほどのご婦人がたにしてもそう、高い垣根に花がしかと見えずとも、その香が人々に綺麗に咲いた≠ニ暗示させるのでしょう。すべて専属の植木職人のおかげとはいえ、あのようなお言葉はとても誇らしいことでございます。私は垣根に沿うように歩きながら、顔を綻ばせておりました。

 

「梅という名前もまた、美しかったかもしれないわ。」

 

かく言う私は藤宮椿と申します。年は今年で十六になり、女学校に通うのも大分慣れたものでございました。明治の頃に文明開花してより約半世紀、先生は時折ぶらうすをお召しになるなど、外国の着物を身につけている方もちらほら見受けられます。けれどそれでも多くの人々は未だ日本の着物を着ておりましたから、私も生まれてこの方外国の着物に袖を通したことはありませんでした。いつも同じように藍の袴に紫の道行、太い三つ編みの付け根に辛うじて藍のりぼんを巻いていたくらいだったのです。我が家の家紋は藤でしたから、着物の色合いには藍や紫を大変好んだものでした。尚且つ私は椿という名でもあったので、藤色の着物に椿の赤い色を合わせることが多く、この日も紫の道行の下には赤の矢羽嚆矢の着物を着ておりました。名は体を表す≠ニはよく言ったものですが、私の場合には名が色を表し、色が体を表すといった具合だったのです。

 

 

 

 

 

 

「只今帰りました。」

 

私は門の戸口から庭を抜けて、ようやっと玄関へとたどり着きました。多くの花の植わる庭の奥に我が母屋はございます。元々土地はあったものの、このように大きな屋敷になったのは父母が財産を築いてからで、それまでは大変に質素であったということは、私はただ話として聞くばかりでした。今や重厚たる瓦が屋根を覆い、幅広い引戸の玄関、長い廊下に縁側が続き、古い離れでさえ一つの家として住めるほどです。

 

「お帰りなさいませ、椿お嬢様。」

 

「あぁ、ヨネ。帰りましたよ。」

 

私は音もなく現れて深々とお辞儀をする老婆に、もう一度帰宅の挨拶を致しました。彼女はヨネといって、私が生まれる前からずっと仕えている女中でございます。齢はとうに六十を過ぎておりましたが、気丈で毅然とした厳格な女性でしたので、私は一度たりともヨネが腰を曲げているところを見た覚えがありませんでした。いつも質素な色合いの小紋の着物に、太鼓結びの帯がきちんと据えられているのです。彼女は私の乳母にも等しく、いくら主家の娘だとはいえ、彼女に物申すことなど致しかねるものでございました。

 

「今日の女学校はいかがでございましたか?」

 

ヨネは部屋へと向かう私の後ろを歩きながら、老婆特有の掠れた声で尋ねます。

 

「それが聞いて頂戴。今日はお裁縫の時間に素晴らしいものを拝見したの。自動で布を繕う…えぇっと…名をなんと言ったかしら…?そう、確かみしん≠ニいったわ。」

 

「みしん=cでございますか?」

 

「えぇ、あんなに素晴らしいものは未だかつて見たことがなくてよ。一瞬で繕ってしまうんですもの。この家にもみしん≠ェあったなら、ヨネ、貴女の手も休まるものを。いかんせん日本にはまだ数台しかないんですって。」

 

「そんな…滅相もない。この婆には勿体ない代物でございます。」

 

「まあ。」

 

相変わらず謙遜が得意なヨネの言葉に、私はクスクスと思わず笑い出します。父はよく女性は自慢好きでお喋りなものだ≠ニ申しましたが、ヨネに至ってはそのようなものは皆無でありました。

 

 

 

 

「先生はみしん≠フ素晴らしさに熱弁を振るう余りに、最後にはお馴染みの選挙の話になってしまったのよ。先生は女性の選挙権に関して、とても熱心でいらっしゃるわ。これからの時代には絶対に必要なものなんですって。私にはまだ考えも及ばないけれど、ヨネはどう思って?」

私は父の言う女性らしさ≠遺憾無く発揮して、まくし立てるように尋ねました。けれどヨネはそんな私にいつも一言で返すのです。

 

「聡明な方のお考えは計りかねます。」

 

「そうね…私もよく分からないわ。素性も顔も知らない男性から一人選ぶなんて。」

 

しかしそれだけこの大正の世が平和ということなのでしょう。以前は武勲のある方が多く登用されていたものを、一般の人でも声を上げられるようになったのですから。明治元年の鳥羽・伏見の戦い(戌辰戦争)、明治十年の西南戦争と、江戸の残り火の国内戦がようやく終わったと思えば、立て続けに二十七年の日清戦争、三十七年の日露戦争と争いが絶えることがありませんでした。尤も私が生まれたのは明治三十一年でしたから、幼い頃の別の国での戦いは知るところではありませんでしたし、女学校で歴史として学ぶものであったのですが。

 

 

 

 

 

 

   

 

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