ドンドン…
穏やかになった部屋の空気を、外からドアをノックする音が響かせた。
「なんだ。」
「お頭、失礼しやす。カルラさん、やはりここにいましたか。」
堅気な性格を思わせる低い声、奪い取った荷物を選別するグループの一人が音もなくドアを開ける。名をゴルといい、サイフェルトと同じく根っからの盗賊で、若いながらも物の価値を見る目は確かだった。
「ゴル、どうかしたの?」
「はい、実は価値の読めないもんがありまして。」
「お前が読めねぇなんて珍しいな。」
「面目ない。…これです。」
ゴルはサイフェルトとカルラに交互に短く返答し、カルラに古い書物を一冊差し出した。“男の目に価値のないものに映っても、女の目には違って映るもんだ”という先代の統領の言葉に倣って、物の判断がつかない時はカルラを通すのが通例となっていた。万一それでカルラが判断を誤っても、サイフェルトが彼女を罰することはなかったが、その度に“もっとイイ女になれよ”と言われるのが癪で、カルラは人知れず目を養っていたのだった。
「『エルドラ・ルド・コーディア』…何語かしら?」
「知らね。」
本のタイトルは見たこともない文字に、聞いたことのないルビがふられていた。古びた装丁…元々それほど格調の高くない本だけに、実際の年月よりも長いものを感じる。
「荷車の隅に転がってたんでさ。わざわざ西から仕入れたもんには見えやせんがね。」
「確かに。」
こんなボロボロの本、売るのも買うのも物好きだけだ。カルラは不審に思いながらも、とりあえず表紙をめくり、最初に書かれた前口上に目を通した。
「“…この書を書くにあたり、エルドラ・ルド・コーディアを訳す最も適切な語がないために、そのままを記す。”…んなことしたら余計分かんないじゃないの。」
カルラは不親切な口上に悪態をついた。
「…“だが内容を把握しあえて仮称するならば、『竜とある男の物語』と名付けよう。これは西の大陸の奥地で口伝されてきた伝説である。”…」
「お伽話か?」
「…どうだかね。」
「いかがいたしやしょうか?」
ゴルの問いにカルラはしばし押し黙った。見れば見るほど不思議な本だ。確かに価値があるようには思えない。だが“要らないもの”と決め付けるのには気が引ける。考えるほどに“価値とはそもそも何なのか”という根本的な部分にまで及んでくる。そんなもの、後から大衆的に定められたようなものだ。必要性と価値は必ずしも比例しない。
「カルラさん?」
眉間にシワを寄せたまま口をつぐんだカルラに、ゴルは呼び掛けた。
「ん…ごめん、この本ちょっと預かるわ。いい?」
「えぇ、構いやせんぜ。」
「カルラが読書か?はははは…こりゃ随分価値があるかもな。」
サイフェルトはいつものようにカルラを茶化す。先程までのピリピリした空気は、すでにどこか遠くへ消え去っていた。カルラもそんな彼にいつものように“たとえ価値があっても、あんたには絶対教えない”と冗談半分に切り返したが、この時のサイフェルトの言葉はいみじくも的中してしまうのであった。
「サイ、開けるよ!!」
ダンダンッ…と世話しなくノックをして、返る言葉を待たずにカルラは統領の部屋の扉を開けた。それはあのピリピリとした夜から3日後のこと、あの時とは違って今度はカルラの方がひどく焦っていた。
「お前…それノックの意味ない。」
これから寝るのに着替えようとしていたサイフェルトは、上着を途中まで脱ぎかけたところで苦笑いを浮かべていた。
「それはごめん…でも大変なのよ!」
カルラは謝罪の言葉に似合わず、ズカズカとサイフェルトの部屋に入り込んだ。そして携えていた書物を見ろと言わんばかりに、テーブルに強めに置いた。
「これ。」
「あぁ…読み終わったのか?珍しい。」
「頼む…あんた少し空気読んで…!」
確かにこの前“冷静になれ”とはいったけど。
サイフェルトはそれを聞き入れてか、ふうっと小さくため息をつくと、一瞬でお頭としての表情を取り戻した。
「話せ。」
「あの子を帰す方法…これだった。」
カルラは手短にそう言うと、パラパラと本をめくった。
「…あたしにはこれ以上うまく言えない。読んで、ここ。」
カルラは竜の挿絵があるページを開いて、サイフェルトに突き出した。サイフェルトは厳しい目付きでカルラを見遣り、それからおもむろに本を取った。茶色の瞳が文字を追う。その表情は見る間に変わっていった。
「…なんだよ、これ…」
サイフェルトの呟きに、カルラたただ唇を噛み締めた。
「なんなんだよ、これは!本当に…これしか方法はねぇのか…?!」
「そんなの分かんないよ!でも…」
やりようがない、他に考えられない。あまりに酷似している物語の二人と、ハイゼと光姫。この物語と同じ道を辿らなければならないのなら、確実に二人の内のどちらかが…
「くそっ…!」
サイフェルトはギリッと奥歯を噛み締めて、苦々しげに呟いた。昨今感じていた不穏な空気の原因はこれだったのか。自分が光姫を元の世界に帰せなくても、ルベンズなら…ハイゼなら或いは…と考えていた。だがこんな結果になるのだと知って、一体何の意味があるというのか。苦しめるだけだ、光姫がこの物語と同じ道を選ぶわけがない。ますます彼女が帰れなくなる。
「サイ…行こう。」
何かを決意したように、カルラが小さく口にした。
「あの子の所へ…ルベンズを追うのよ。」
「行ってどうする?この話をしろってか?」
「そう、するのよ。この話を教えるの。昔…お伽話かもしれないけど、同じことがあったかもしれないって。」
「馬鹿か…そんなの無意味だ。」
「無意味じゃない!!」
カルラは机をバンッと叩いて言い切った。サイフェルトは腰に手を当てたまま、上目使いにカルラを睨む。
「サイ…もしあたしらがミツキに会っていなかったら、この本をどうしてた?逆にいえば、ミツキに会わなかったら、この本は手元に入って来なかったかもしれない…でしょ?」
沈黙のまま、サイフェルトはカルラから目を離さない。けれど少しだけその表情に変化が見られた。
「ミツキに会ったことと、この本を手にしたことは決して無意味じゃないのよ。この本はルベンズでも若頭でもなく、あたしらに託されたのよ。だから必ず意味がある。これをこのまま放っておいてはいけないのよ。」
夜風がガタガタとはめごろしの窓を鳴らす。二人は黙ったまま、部屋には緊迫した空気が流れた。カルラはそれ以上サイフェルトに言及することはしなかった。ただ彼の返事を待つ。
「……分かったよ。」
ややあってサイフェルトが呟いた。
「地図を持ってこい。それから天候役もだ。ミツキがここを離れてからの日数と天候から居場所を割り出せ。すぐにだ。」
「了解。」
サイフェルトの指示を受け、カルラは風のように素早く階下へと下りていった。部屋ではただ一人、サイフェルトが悲痛な面持ちで挿絵の竜を見つめていた。
こんな結果には絶対にさせない。
そう強く心に言い聞かせながら。
9章へ続く。