「やっぱり思い詰めてた。」
真剣な眼差しと、少し怒ったような一言。両手をハイゼの頬に添えたまま、光姫は呆気にとられた表情の彼を見つめ返していた。オレンジの瞳に自分が映る。ハイゼのこんな驚いた顔は初めてだ。光姫はしばらく瞬きもせずにハイゼを見ていたが、それから何の前触れもなく、真剣だった表情からニコッと満面の笑みへと変えた。ハイゼの顔は益々不可思議を示す。
「ハイゼ…あたしね、西海岸のアジトでハイゼがあたしを帰してくれるって言った時、すごく嬉しかったんだよ。」
光姫は両手をハイゼの頬から自分の背後に移動させて、はにかむように話し出した。ハイゼはただそんな彼女を見つめる。
「あたし一人で何とかしなくちゃいけないわけじゃないんだって…安心したの。“帰す”って別れることなのに、本当に嬉しかったのよ。」
光姫は何か楽しい思い出を話す時のように、柔らかな笑顔で話していた。だがその真意はどこにあるのか…ハイゼは言葉を挟めずにいた。
「だけどね、ハイゼ。それは貴方が最後までいてくれるからだったんだよ。今あの時と同じ言葉を言ってくれても、あたしちっとも嬉しくない。まるでハイゼがいなくなってしまうようこと、言わないで。ハイゼにもしものことがあるなら…あたし元の世界には帰れない。」
光姫は泣き出しそうな顔で俯いた。この時は、ただハイゼに無茶して欲しくなくて言った言葉だった。結果的にハイゼの口を紡がせることになり、後になってひどく後悔したのだけれど。
「ミツキ…」
ハイゼは一歩光姫に歩み寄って、顔を見ないように…見せないように抱きしめた。ハイゼの体は少しだけ…震えていた。それを止めようとするように、強くあたしを抱きしめる。あたしはこの時、その震えるわけを聞けなかった。ハイゼの寂しい…辛い気持ちが、あたしの中にも入り込んでくる。泣いていたの?…あたしには見えなかった…涙も真意も。ただ彼に応えるように、あたしも腕を回して抱きついた。
たとえ別れ行くことが前提でも
せめてその時が来るまでは
「そばにいて…ね。」
「…あぁ。」
そう呟いて顔を少しだけ上げ、目が合う間もなく唇を重ねた。まるで慰めあうようなキス…どこかハイゼが一緒にいることを強く望んでいるのを伺えるものだった。
ねぇハイゼ、それならそれで良かったのよ。あたしたちの間には、言葉にしなくても伝わることが多かったから。その思いがYESの返事のはずだった…なのに…
「待って…どうして…?!」
あたしはよろめきながらも立ち上がって、弱々しくも手を延ばした。その手はいつも温かい手がとっていてくれたはずだった。けれど目の前にいるのは…茶色い竜。オレンジと朱が混じる目があたしを映している。
「う…」
その視線に貫かれてか、あたしの心臓は途端にズキンと痛み、思わず胸に手をあてた。足がガクガクと震えている…これ以上彼に歩み寄る事ができない。竜と化したハイゼが、今まさに逃げるように飛び上がろうとしているのを目の当たりにしていながら…!
「お嬢…ダメだ!!」
料理長があたしの腕を掴んで、震える足を無理矢理にでも動かそうとしていたあたしを引き止めた。いや…止めないで…!痛い…痛い…体が、心臓が、心が…!!
「ハイゼ…!!」
しかし延ばした手を拒絶して、竜は…ハイゼは夜の空に飛び上がった。遠く…小さく光る星よりも、どんどんと見えなくなっていくハイゼの姿。風を切り裂く音も遠のき、辺りにはバラバラになったテントの残骸が散らばる。残されたルベンズの誰もが呆然としていた。
「何が…どうなっているんだ…?」
料理長の手があたしから放れる。あたしは支えを無くしたように、その場に座り込んでしまった。そして竜の見えなくなった先をただ見つめていた…その手に砂を握りしめながら。
「ハイゼ…」
あの人が竜になっただなんて信じたくなかった、そんな事実受け入れたくなかった。だってあの時、側にいるって言ってくれたのに…。あたしは表情を少しも変える事なく、ただ夜空を見つめていた。夢だと思いたい光景…夢だったのかとすら思えるあの夜の事。
その時あたしが何を感じて何を思ったのか、後にも先にも思い出せないままだった。心がどこかへ行ってしまって、体は抜け殻のようだった。それはさながら砂上の夢。そこから目覚めて何もかも元通りになっていることを、ただひたすらに願っていた。
9章へ続く。