それからどれだけの時間が経ったのだろうか。ハイゼは岩山で過ごすことが常になっていた。夢か現か分からない狭間にいれば、欲望に駆られる事もない。何もかも忘れてしまいそうなほど気が遠くなる代わりに、嫌な思いをする事もなかった。眠らず、夢を見ず、何も考えずにいれば、さしもの欲望も手が出せまい。
…だけど同時に何もかもが朧気になっていく。俺が俺で…なくなりそうだ…。
ハイゼは軽く瞳を閉じた。眠るわけじゃない…眠れば夢で囁かれる。だが限界も近い…屈強な竜の体でも、こう不眠不休が続いては体が重く感じられる。いざその時になって動けるかどうか…
そこまで考えてハイゼはふと顔を上げた。そして遠く視線を移す。何故かを考える暇もなかった。ただ引き寄せられる…目線が、そして心が。
…ハイゼ
声が聞こえる、遠くの砂漠に小さな点のように見えたそれから。それは光の文字を背負うにふさわしく、ハイゼの目に輝くように届いた。意識をはっきりと取り戻しているのに、不思議と欲望の囁きが聞こえてこない。光が全てを洗い流す。
ミツキ…今お前と俺は目が合っているんだろう?どんなに姿が小さくてもそれが分かる。すべてを聞いて…それでも西のアスベラの元に行くんだな…。
…心配しないで。西へ行って必ず突破口を見つけるから…。
再び光姫の声がハイゼに届く。どちらか一方を必ず待っている死をまったく感じさせない言葉。…お前は本当に強い女だよ…俺もそれに応えないとな。
ハイゼは久し振りに微笑んだ…微笑む事が出来た。光姫の存在が心を明るく照らす。それは背後に濃い影を作り出してしまうけれども、同時に自らの姿をはっきりさせてくれる優しい光。お前が西に向かうなら、俺はもう少し離れていよう。どんなになってもやはり欲望からは離れられないから、お前が突破口を見つけるまでせめてなりを潜めているよ。
そうしてハイゼはそれまでいた岩山から飛び立った。体は未だ人間のものではない…醜い骨格、気味の悪い翼、鋭い牙と爪。けれど心はまだ竜じゃない、不完全でも人間でいられる時がある。それが希望をもたらす、心残りを思い出させる。…本当はこんな姿のまま別れたくはないけどな…。そう思いながらハイゼは場所をやや東へと移していった。あとどれくらい自分が自分でいられるのかは分からないけど、せめてあいつに対峙するその瞬間だけは自分でいなくては…。
ミツキ…どんなになっても、俺がお前を帰してやる。
そうしてどんどんと遠くなっていくハイゼの姿とは裏腹に、運命の時は刻一刻と迫ってきていたのだった。
フェイタリティ・グローブ第13章へ続く…