「ちょっと外に出てみていいかな?」

次の日の午前、あたしは窓から外を見ていて唐突に切り出した。傍らにいたサイフェルトが驚いたように振り返る。昨日から何となくアリアさんの書斎の本を調べる気にはならなかった。たとえ文字を読めたにしても、あれだけの量がなかったにしても、それは同じだったと思う。あたしが求めているのは知識じゃないんだ。当てがなくても思わず口をついた言葉のほうが可能性がある気がしてる。

「そりゃ構わないけど…どこに行きたいんだ?町か?」

「ううん…町じゃなくて、どこか静かなところに行きたい。空を見たいな…。」

この窓は少し下方向に向かって斜めになっていて、目の前に広がるような空を見ることが出来ない。光姫は眼下で揺れる海面から目を逸らさないまま言葉を続ける。

「静かな所か…俺も行くよ、ヒメ。」

「おいたんも行くぞ!」

「あ、料理長。」

いつの間にかすぐ側に料理長が来ていた。

「いいの?」

「あぁ、ここじゃ俺は用なしだからな。…なに残念そうにしてんだ、サイフェルト。」

「…別に。」

本気ではなかったにしろ、料理長に先手を打たれてサイフェルトはかなり不満そうな表情を浮かべていた。しかしそれをすぐに悪戯な少年のような笑みに変えると、光姫と料理長を連れ立ってアスベラの家の崖上へ誘って歩き出した。

 

 

 とても穏やかな日だった。涼しい海岸線…微かに聞こえる波の音、吹き抜ける風。目の前には両手を一杯に広げても抱えきれないと思えるような、とても広い空が広がっている。風に飛ばされて雲はない。澄んだ青空が心を洗う。

でも…それでも何かが足りないと感じるのは、仕方のないことだと言ってもいいよね。これは決してネガティブな言葉ではなくハイゼに報いる気持ち。どんなになってもあたしの中にはあなたがいるよ。そのあなたがいないのに満足なんて出来ると思う?だからこの心の空虚はある意味で嬉しいんだ。これはあたしの心が曲がっていない証拠だから。

「あと2日か。」

料理長が風の音に紛れるように呟いた。目線は光姫と同じくどこか遠くを見ている。

「…時間がないね。あたし…」

「そうじゃないよ。」

“まだハイゼを元に戻す方法を思いついてないや”と言おうとしたあたしを、不意に料理長が遮る。

「お嬢といられるのがさ。」

料理長は真っ直ぐな目にあたしを映す。あたしはその目を見つめ返したまま何も言えなかった。途端に寂しさが心を満たしていく…あたしは今生の別れをもう一度迎えなければならないんだ。ハイゼのことばかり考えて忘れていた。けれどそれ以上に…

「嬉しいわ、料理長。そんな風に言われると帰りたくなくなっちゃう。…寂しくなるわ。」

「そうだな。でもお嬢が帰らないとな、御頭のためにも。」

料理長は大きな手であたしを撫でた。頭から頬へ…恋愛感情とは違う好意と安堵が増す。

「いっそここにいればいい!」

「サイフェルト…」

「…なんてな。分かってるよ、ヒメ。だけど勝算はあるのか?相手はいつものハイゼじゃない…竜なんだぞ。」

「うん…まだ分からないんだけど、もしあたしが元の世界に帰る意味があるなら…」

光姫はそこで言葉を止めた。

 

 

 あたし今なんて言った?“あたし元の世界に帰る意味”…ここでは全てに意味がある、その意味がある限り可能性を信じていい世界…それがここ。

「そうだ…意味よ…。」

何かが閃く。文字通り頭に閃光が走ったみたいな感覚がある。

「あぁ…なんであたし気付かなかったんだろう。ずっとハイゼが竜になったことにばかり意味を求めてた。そうじゃないんだわ。あたしが帰ることに意味を見つけないといけないんだ…!」

あたしは独り言のように頭によぎる思いを…考えを口にしていく。あの竜の力がどんなに忌まわしくても存在する意味は、異邦人を帰すというような困難な願いを叶えるため。ハイゼがそれを受け入れて竜になった意味は、あたしを元の世界に帰すため。それじゃあ…あたしの帰る意味は?

光姫はひたすら考えを巡らせていた。細い糸を手繰り寄せるように、それを決して手放さないように。

 

「ただ帰ることだけを考えていたらあたしは帰れない。意味がなければここでは何も起きないから…。あたしが帰ることで逆にハイゼを助けられたら…」

「まさか…まさか竜としてのあいつの命を救うことで意味を見つけるつもりなのか?そんなことしたらヒメは死ぬんだぞ!?」

サイフェルトは光姫の言葉を聞いていきり立った。そんなことは許さないとでも言っているように。

「違うわ!違うの…聞いて。あたしはハイゼを竜としてじゃなくて人間として助けたいの。…元の姿に戻って生きていて欲しいの。」

「無理だ…!人間としてならあいつが死ぬ。どちらもが救われるなんてことはあり得ないんだ。」

「どうして?」

光姫は柔和に問う。その思いがけない優しい微笑みにサイフェルトはたじろいだ。料理長は口を挟まずにその様子を見ている。

「それは…」

「それは考え方が2つしかないからでしょ?よく聞いて。あたしが帰ることに意味をもたせるのよ。元の世界に帰ることでハイゼを助けるの。帰ることに意味があればあたしは帰れる…可能性が上がる。もしかしたらあたしもハイゼも死なずに済むかもしれない。…そのためにはハイゼをまず竜の心から解き放つことが条件だけど…。」

「…確かにあり得ないことではないな…」

料理長はそう言いながらサイフェルトに目線を移す。

「…できるのか?リゼットのババァは道は2つしかないって言い切ったぜ。」

「分からない…。だけど運命と違って物事の意味はいくらでも変えられるのよ。意味は人の心の持ちようだから。」

そう言って光姫は一歩前に踏み出し、180°見渡せる空を再度見上げた。竜はハイゼのために、ハイゼはあたしのために、あたしはハイゼを助けるために、それぞれに意味を見出そう。たとえあたしの帰還に課せられる意味が結果に先行することになっても、きっと何もおかしくはない。それは物語の伏線のようなもの。

確かに自分の考えに絶対の自信があるわけじゃない。それでも何かが変わるような確信も生まれてる。強い海風が不安を吹き飛ばしてくれる。きっとこの先にハイゼがいるのね。だけど…だけどせめて声を聞かせて。あたしの考えは間違っていない?あたしはあなたに報いてあげられる?たった一言でいい…お願い…

「いいよ。」

あたしは俯きかけてた顔を上げた。無意識に噛みしめていた唇が緩む。

「サイ…フェルト…」

「それでいいよ…なんてあいつの口癖だな。でも言ってやるよ、何度でも。…もう時間がない。こう考えてるだろ?“今こうして思いついたことにも意味がある”って。それでいこう…きっとまちがってないから、な?」

「…うん」

あたしは今なんて不細工な顔をしていることだろう…涙をこらえながら笑ってる。嬉しい気持ちもある、寂しい気持ちもある。この涙に意味づけしようなんて野暮だよ、神様。

 

 

 あなたを本当に助けたいから、あたしは決して立ち止まらない。。あたしの後ろには支えてくれる人がいるから、その人たちを信じて後ろを向かない。最後のその瞬間まで、あたしは背を向けないでいるわ。

 

 

     

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