もしも全ての世界が平和になったら…
その約束のどれだけを自分がやってこれたのか、カイは見当もつかなかった。機会があれば尋ねもしただろうが、尋ねるべき相手も術もまるで知らなかった。ただ自分のしていることが間違いではないと言い聞かせて、彼は先に進むしかなかった。
カイは目覚めた。見知らぬ土地だった。いつもの頭痛には未だ慣れない。それでも目を瞬かせながら周りを見た。カイは背後には森(といってもラナと出会った森の十分の一もない)が広がり、目の前少し離れた場所にテントがぽつんぽつんと点在していた。尤も立ち上がって見てみると、テントは一定の距離をあけながら地平線すれすれまであり、その数はゆうに200を越えていたのだが。
カイはすぐにでもテント群の方へ行って、より早くこの世界での解決策を見つけたかった。しかしテント群は塀も堀も周りを囲むものは何一つもないのに、他者を寄せ付けもせず受け入れもしない雰囲気を纏っており、とても出ていける気がしなかった。直接乗り込んでも信用は得られない…カイは意に反して背後の森の中を進んだ。森の中で誰かに会えたら、何かの突破口になるかもしれない。
森は思っていたよりも深くなく、ずっと小さかったにもかかわらず、物音は一つとしてなかった。木々の間から向こう側の光が見え、森の幅は2キロメートルとない。森の向こうには街があった。新旧の建物が混在する街で、生活感はあまり見られない。カイはテント群よりも、この街の方が入りたいと思えなかった。人気のない森と街とでは訳が違う。
「?!」
突然にカイは目の前が赤くかすむような感じがした。見れば右腕が光っている。しかも何か揺らめくように流動しているのだ。カイには訳が分からなかった。光は何かを塵にすることも、カイをどこかに送ろうともせず、ただ炎のように揺らめくばかりである。
光を見つめるカイを、さらに遠くから見つめる者があった。カイはすぐにその目線に気付き、声を掛けた。
「誰かいるのか?」
返事はなかった。しかし木の影から小さな男の子が二人出てくる。年子の兄弟のようだ。どちらもケイルより少し年下に見える。何か二人だけでこそこそ話をしていたが、しばらくして話が終わると、二人は戸惑うカイに近づいてきた。
「お連れします。」
子供特有の高い声で一人が言った。
「お連れします、神様。僕たちの村に。どうぞお出でください。」
もう一人が言葉を繋ぐと、二人は奇妙に手を組んで2回お辞儀をし、3回目はさらに深く腰を折った。
「…神様?何を言ってるんだ?違うよ。私は…」
カイは弁明したが、二人の男の子はまるで聞き入れず、マントに隠した両腕を必死に引っ張って、元の道を戻っていった。
戻ってきたテント群では、人々が活動を始めていた。カイは何とか右腕だけでも振りほどくとマントの下に隠していたが、揺らめく赤い光はどうやっても隠しきれなかった。そんな彼がひとたび村に入ると、テントの住人たちは驚きの表情を見せるやら、お辞儀をするやらで、先ほどまでの静けさはすっかり破られてしまった。
村の奥、一番立派な彩色が施されたテントから、かなりの高齢の老人が出てきた。色黒の肌に刻まれたシワは数え切れないほどで、その一つ一つが何かを物語っているかのように、その老人は村の賢者に見える。老賢者はカイにゆっくり近づくと、人々がやったのと同じようにお辞儀をした。近くで初めて見て取れたのだが、彼らは両の手首を 逆の両手で掴み2回はそのままお辞儀を、3回目はその腕を高く上げて深々とお辞儀をしていた。どうやらここは宗教じみた世界らしい。やがて長い白髪の背の低い老賢者が話し始める。
「遠き彼の地より、よくぞお出でくださいました。ツァラトラの神よ。あなたの来訪に、心からの感謝と喜びを申し上げます。また同じく謝罪の念、申し上げますことを聞き入れて頂きたく願います。我らはツァラトラの聖なる地を守ることが出来ませんでした。あなたの宿るべき場所は、必ずこの地にご用意いたします。どうかお許しを。」
カイの周りの一同が一斉に頭を下げた。カイは戸惑う。
「待ってください。あなた方は何か勘違いしています。私は神などではありません。私はあても目的も分からないままに旅をする流浪の者です。」
「分かっております。それも全て我らが聖地を離れ、流浪になったが故であります。どうかお鎮まりください。」
カイの言う事はなかなか伝わらない。
「何故私が神なのです。」
カイは聞き方を変えた。
「あなたはその体に火を宿しておられる。そのようなことが出来るのは、ツァラトラの聖なる神に他なりません。」
老賢者は恐れ多いといった態度で話した。カイはなおも隠しきれないでいる光に一瞬目をやり、少し強い口調で言った。
「これは火ではありません。ただの赤い光です。」
カイはマントの下からバッと右腕を出した。実際に見てもらえれば理解してくれると思っていたが、それは逆効果になった。クリフォスの赤い光は、マントという隔たりから解き放たれたことで、より強く光り出し人々は畏敬の声を上げて次々にひざまずいていった。あちこちから経典の一節のような言葉が聞こえてくる。カイは自分でも思っていなかったほどの強い光に驚いて慌てて腕をマントの下に戻し、左腕でしっかりと押さえた。しかしそれでも光は弱まらなかった。人々もまた祈ることをやめない。
「我らに出来ることは何でも致します。どうかその赤き炎を今ひとたび鎮めて下され。」
老賢者はただカイに許しを乞うばかりである。当のカイにしたって、自分の右腕の光をどうやったら消せるのか教えて欲しいぐらいだった。
「分かっています。ですが自分でも光を抑えられないのです。私はあなた方に対して、少しも怒ってなどいませんよ。」
カイは努めて冷静に言った。だが老賢者の側に控えていた男は言う。
「あなたがお怒りでなくとも、ツァラトラの聖なる地が嘆いておられるに違いない。あなたの身を通して、我らにそのお怒りを示しておられるのだ。」
カイはごく小さくため息をついた。これ以上何を言っても同じなら、とにかくこの場を離れよう。
「…私の中にあなたたちの神の怒りを感じるなら、私はこの村を離れましょう。騒がせて申し訳なかった。」
カイはそういって老賢者たちに背を向けて歩き出したが、数歩と行かない内にその歩みを止められてしまった。村人が出てきて、おずおずしながらもカイに行くなとせがむのだ。
「今あなたに去ってしまわれると、我らは神の怒りを見逃したことになります。ツァラトラの聖地は、それを決してお許しにはなりません。あなたが仮に神でないにしても、神の怒りを宿す方として、この地に留まって頂きたいのです。」
老賢者はカイの背にお辞儀を繰り返し、切に願った。カイはとうとう折れた。もはや自分にはこの村に留まる以外に選択肢はないのだ、と。
「分かりました。私はこの村にいます。ただ私あなた方の言うツァラトラの神ではないと、理解して頂きたい。」
自分が神ではないこと、ツァラトラとは何の関係もないこと、赤い光は炎ではないこと、その全てを正確に分かってもらえないなら、せめて一つだけを条件としてでも理解して欲しかった。
「仰るとおりに。では赤き光を宿す方よ、ただいま我等の手でお休み所を用意いたします。どうかそこにお留まりを。」
「ああ。」
カイは短く返事しただけで、村の男たちが自分の滞在する事になるテントを組み立てるのを黙って見ていた。用意されたそれは、テントというよりも簡易住居に近く、中心に柱となる木を立て、そこから細い木の枠が住居のドーム型の天井と側面の壁になり、更に白地に黒と赤で燃え上がるような模様の布をかけて完成した。完成した途端、カイは中にはいるよう促された。